Ⅲ フォトグラファー

団地に住む同級生で根津君って子がいた。気が弱そうな奴で、6年生の冬に亡くなっている。心臓が弱かったらしい。その彼に案内されて団地の内部に一歩足を踏み入れたときの印象は忘れられない。

両開きで重たい引き戸をガラガラッと開けてなかに入ると、同じ構造の部屋が遠くまでズラリと並び、薄暗い廊下の幅は広かったが、各部屋の前にはところ狭しと自転車や乳母車が置かれている。

ドアを開けていよいよ根津君の部屋に入っていく。このドアは真新しく、後から取り付けられたものだろうと子どもの目にも想像できた。

室内はやはり薄暗く、裸電球一つ。壁も床も何もかもが黒くくすんでいた。床は三段構造で高くそびえていたような気がする。つまり、巨大な三段ベッドと理解してくれていい。

ここで過ごす夏は暑いだろう。エアコンなんてない時代だ。そこに幾組もの家族が押し込められるように入居していた。

小さな窓が一つあったが、手も届きそうにない高い所に一つだけ設けられていた。とても暗くて根津君の表情もわからない。見るものすべて逆光のシルエット。暗闇生活者たちが発する得体の知れぬ鬱屈したエネルギーは、なんとも言えない臭気をつくっていた。

一家離散もあったろう。戦争に負けてすべてを失った挙句に、命懸けで逃げ帰った者たちの怨念は、君らに想像もつかないだろう。子どもの目にも不気味だった。兵舎を住宅に転用したから、軍隊時代と変わらず灯火管制しているかと思わせるほど。各部屋の高窓は、兵隊が脱走しようとするのを防ぐためでもあったのだろうか。

ホワイトボードにさらに「連隊兵舎」、「一家離散」、「灯火管制」と書き込んでいく。僕の兄姉にはそれぞれ別の自転車があったが、僕には大きすぎて乗れない。親もそろそろと思ってくれていたんだろう、2年生に上がるとようやく父が買ってくれた“拓史号”。20インチで緑色の車体。いま思えば小っちゃな自転車だが、夢はいっぱい詰まっていた。

一度父親に付き添ってもらっただけで、すぐに一人で乗りこなした。父の「ウオーッ、いいぞ」という歓声を背中から浴びたことを覚えている。