妊娠判定の尿検査キットが変化するのを寮のトイレで見た。そのときからこーちゃんに会ってない。あんなに気をつけていたのに。

信じてもらえる? 

信じるよ! あったりまえ! 

社員寮の電話を使える話じゃない。外の公衆電話は痴漢の多発地帯。直接、行けばいいだけのこと。合鍵だってここにある。いつでも勝手に入って、好きなだけいてね、って渡された。

こーちゃんが疑うはずない。けど。覚悟もなく湧いた一つの命に動転した。責任の重さに押しつぶされた。恐れや迷いが心の原野を徘徊する。この重い責任をこーちゃんは軽くしてくれる。

でも! 何もかもが変わる。妖怪が心臓の中でのたうち回り悶える。日常の細々としたルーチンがナオミに攻撃を始めた。外食できなくなる。バスや地下鉄にはどうやって乗る? 電車で泣く赤ちゃんを睨む人を何度も見た。人間は機械みたいに働くと、機械にはない思いやりも消えるの? 

アタシも? 新幹線で見た。子どもがグズるとママたちは抱っこして座席を立った。車両を出てった。きょうだいがいれば、その子も連れて。次の駅を過ぎて、私がトイレに行ったらそんなママたちは十キロありそうな子どもを抱っこして出入り口の近くで立ち続けてた。座席はたくさん空いてたのに。アタシも子どもができたら電車や新幹線で迷惑なの? 自転車はどうすればいい? 雨の日は? 風が強いからって家に閉じ籠れるような贅沢ができるわけない。

自分の人生を取るか、諦めるかの選択。諦めるには早すぎない? やりたいこといっぱいあるのに!生きてきた二十二年間で一番、悩んでるよね、アタシ? 

これまでの悩みは全部、自分のこと。今は「ニンゲン」の「イノチ」が宿った悩み。比較にならない。崇高って言葉をどっかで読んだ。これが、崇高、っていう意味だ、絶対。アタシの中でイノチが湧いてるんだよ? 

どういうこと? これ、他人? だって、アタシじゃないもん。でも、この「他の人」に罪はない。身長一センチ。

これまでの日々と、これからの毎日を断絶する深くて険しい谷。全神経が痛みの神経に置き換わった。動けない。

こーちゃんに言えばいいだけ。解決してくれる。鏡を見て今日は、会えない、と思った。目の下にひどいクマがある。アタシの人懐こい目元が大好きだって言うこーちゃん。ダカラ、今日のアタシの顔は見せられない。見せたくない、それが口実に過ぎないって、ほんの少しは自覚してる。一人で抱え込めば無かったことになる、平穏な幸せな日々が戻ってくる、って信じたいだけだとわかってる。せめて、時間が止まり、この小さな命が成長を待ってくれるかもよ! って胃袋の深いところが叫んでる。

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