一九九九年 孝子@(はな)(いかだ)

昨日、初めて彼の部屋を訪れた。夕方、ドアの向こうに誰かが、来た。ノックの仕方が不安そうだった。彼の凍り付き方から外にいるのが女性だと認識した。そしてかぼそい声が呼ぶ。その前、彼が電話に出ないことが二度、あった。外にいる女性は来年の私だと、孝子の心は引きちぎられ押しつぶされた。

これも嫉妬? 必要ないのに炎が体の内側を焼き尽くし、口から、鼻から、目から火柱があがる。こんなの私じゃない。業火を追い出そうとしても囚われる。

ピンク色に染まる川面、ピンクの絨毯を敷き詰めたような土手、桜並木、そして青い空の下、ゆっくりと、孝一は手をつなぐ。指先からぎこちなく。

「私、こんなにちやほやされたことない。孝一さんは皆に愛されてきたのね。自分がされたように人にするって、言わない?」 

桜のシャワーが散る。

「皆に愛され? まさか。仕事してると、あ、でもこの話はやめとく。せっかく孝子さんといて幸せなのに。ん、と、オヤジは厳しかったな。責任、責任って」

孝一は孝子に向いて立ち止まり、髪に降った花びらを一枚一枚、丁寧に取った。 息がかかるほど間近に向かい合う孝一の両耳が、逆光に赤く透ける。孝子は息を吸い込む。彼の匂いでこの体を満たす。

「真正面で孝一さんの目を見上げると、よけいにたれて見える!」

孝子が自分の五本の指を、孝一の五本の指の間に挟む。

「笑うとよけいにたれる! こんな愛嬌のある顔ってテレビでも見たことない! 友だちが勝手にオーディションに申し込んだ、なんてことはないの?」

「えぇ」

音程外れで六甲おろしを歌った。

「なんの才能もないって友だちは知ってたし。芸能人てさ、大勢の知らん人に日常の嫌なこととか、退屈を忘れさせる才能が要るよね。僕が夢を見させるのは知らない大勢じゃなくて孝子さんだけ」