【前回の記事を読む】「甲子園出場校」のある銚子市の野球文化…衰退の最たる原因とは

1.歴史的大敗からの「怪物退治」へ

昭和48年3月27日。その日の夜、ある学校の野球部のバスが甲子園を後にした。

バスの中は静まり返っており、そして多少の緊張感が漂っていた。闇夜の高速を走るバスは、やがて明るくなる頃に千葉県に入った。選手の一人が外を見ると、薄明るくなった景色には多数の人影が見えた。普通の町ならまだ寝ている時間であるが、その町は「朝が早い」町である。

すると、その人影がバスに何か叫んでいるのがわかった。その瞬間、「ゴン」と鈍い音がした。

最初のその鈍い音がすると、続いて2、3回と続いた。車内の選手たちが次々にそれに気が付く。窓際の選手が見ると、それは投げられた石がバスにぶつかった音だと気付く。選手たちは、一気に気分を落とし、そして前に座っていた「名将」は、静かにその光景を見ていた。

その日のスポーツ紙に、3月27日の試合結果が載っていた。そこには、報徳学園16-0銚子商とあり、見出しには「報徳が猛攻、大量16点」その下には「銚商の黒潮打線は沈黙」と書かれていた。

前年の昭和47年の春のセンバツ第44回大会では、全国ベスト4(銚子商3-5日大三)まで食い込み、春センバツではここまで5度の出場で、ベスト8を2回、ベスト4を1回記録し、夏の甲子園では、昭和40年の千葉県勢初の準優勝を皮切りにベスト8を2回記録し、まさしく「全国上位常連」「全国優勝候補」だった銚子商が、まさかの初戦敗退のみならず、16点差でしかも完封負けというインパクトのある大敗だった。

その数日後の4月6日。スポーツ紙には、「怪物、甲子園準決勝で散る」とあった。

この年の春のセンバツで、甲子園に出場した怪物を大勢の報道陣が囲い込むシーンは、連日テレビで見られた光景だった。栃木に現れた怪物は、前年の新チームから数えて139イニング無失点という実績をひっさげ、全国の地でもその力を見せ付け、そして、この年のセンバツは、それまで全国の場で出場がなかった怪物が、初めて全国の舞台で躍動し、「江川のための大会」と呼ばれるほどのフィーバーだった。

この年のセンバツで、怪物江川が記録した「60奪三振」はセンバツの大会記録となった。怪物江川が、最後の夏を終え、高校野球生活を終えた時、残った成績は「公式戦で完全試合2回、ノーヒットノーラン7回」という、おおよそ高校球児が成せるようなものではなかった。

銚子商ナインとしても、もし、ここで勝ち続けることができたなら。秋季、春季の雪辱を春の甲子園で晴らすことができるチャンスがあった。しかし、その望みは、16-0という歴史的大敗のために叶わず、銚子商野球部が代々受け継いできた伝統である、甲子園での「緒戦必勝」にも終止符を打つこととなった。