【前回の記事を読む】「ゴン」と鈍い音が…甲子園優勝候補校が地元で受けた仕打ち

1.歴史的大敗からの「怪物退治」へ

甲子園。それは、学生野球、高校野球をしていた人間にとって、憧れの総本山であり、毎年ここに向かって高校生活のうち2年半を野球に費やす人間が大勢いる。しかし、大体の高校球児は現実を見る。テレビでは甲子園と軽々しく言うが、その舞台にたどり着くことは、どれだけ難しいか。これは本当に高校野球を経験した人間でないとわからないかもしれない。

激戦区千葉。2021年現在も予選に出場する学校が170校を数える全国屈指の激戦区で、全国優勝を3度(いずれも夏の甲子園)飾ったことのある県でもある。そして、とりわけ、昭和40年代に、その千葉県の高校野球を牽引した一つの高校に「銚子商業高校」があった。

多くのファンを魅了した銚子商野球部の黄金時代を築き、「銚子」という名前を一気に全国区にしたのが、名将斎藤一之監督。27年間の監督、部長を通して、甲子園春夏11回出場、監督として甲子園勝利数23勝、全国準優勝1回、全国優勝1回を数え、現在でも千葉県内での監督勝利数はトップ(全国28位タイ)。これは、斎藤一之監督の没後30年以上経っても破られていない。

斎藤監督の教え子たちに取材し、当時の銚子商の強さの秘訣を聞くと、その要因は決まって「練習量」と答えた。これは、銚子商が、昭和40年に初めて全国準優勝した時のエースで、後の東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)で、最多勝を取る木樽正明氏にも、「プロの練習よりもきつかった」と言わしめる練習量と語り継がれている。そして、何よりも際立ったのは、銚子商は「全国での上位常連」であり、「1回戦負けがほとんどなかった」ことである。

今から、約40年前。地元銚子市、そして千葉県の希望であった選手、そして地元の英雄である斎藤一之監督が、グランドで選手に「野球」を施している姿を見ていた「土手クラブ」は、現在でも銚子商グランドに姿を見せている。銚子商のグランドは校舎と比べると低地にあり、グランドに降りる階段が長く、一部は崖のようになっており、その土手の上から、幾人ものファンが押し寄せて銚子商の練習を見ていた。この人々が「土手クラブ」、今で言う、銚子商野球部の「ファンクラブ」であった。

元々、今のように娯楽も少なく、仕事を引退してしまえば、時間が有り余っている人たちにとって、銚子商の練習を見ることが、定年後の最も楽しい時間だったといわれている。このような人たちの集まりが、「土手クラブ」となったという。

写真を拡大 銚子商野球部ファンの「土手クラブ」
写真を拡大 銚子商グランドのベンチ