同意書を書いてから帰りの車に乗るまでの記憶があまり残っていない。高校時代の親友に会ったのは辛うじて覚えているが、何を話したのか曖昧だ。

診察料も払っているのでそれなりの冷静さはあったようだが、死への恐怖感がじわじわと襲ってきた。恐怖感がマックスになった時、信じられないことが起こった。私はその時車を運転していたのだが、車窓の景色が輝いて見えてきたのだ。

車は私が勤務する小学校に近づいてきていて、いつもの見慣れた景色であったが、今まで見たことのない神々しさであった。死の恐怖から人生の儚さを感じた時、逆に生きていることの素晴らしさを凄く感じた。生きていることが当たり前の時には感じなかったこの世というものの素晴らしさ、愛おしさを強く感じ始めた。

そうするとまた、アナウンサーのあの記者会見の様子が甦ってきた。自分もあの人のようにがんと闘おう。がんの治療技術も前よりはきっとかなり進んでいるはずだ。車での二十分間。この二十分間が私を大きく変えた。

学校に着き車を降りた時、ちょうど六年学年主任のO先生が通りかかり、

「戸隠先生。陸上練習の指導お願いしますよ」

と言った。空想の世界から現実の世界に戻ったような気がした。そうだ。今日は放課後に陸上大会に備えた練習があり、陸上の経験のある私がスタートの仕方の指導をすることになっていたのだ。再検査に行く前は当たり前のことだったが、この数時間の激動で私の頭からは陸上練習はすっかり消えていた。

「了解。了解。校長先生に再検査の結果を報告したら行くから」

といつもの調子で言えた。O先生からすると自分はいつもの自分にしか見えないようだ。車での二十分間で自分はかなり落ち着いた。そして、少し、自信が持てた。私はそう思った。