【前回の記事を読む】【討幕】日本史頻出ワードなのに…明治維新に至るまでの15年の激動がいまいち理解されていないワケ

明治維新の前に知っておきたい幕末の歴史

薩長同盟(同盟とは藩単位の約束事)

長州藩は天皇、公卿たちの朝廷と関係が強かった。これは吉田松陰らの(松下村塾)尊王思想の国学(古事記・日本書紀の解釈)が盛んであり、その子弟が活躍しやすい環境と人脈があって、薩摩藩とは、幾分論旨が異なるところがあった。この段階では当然であろう。

長州の志士たちは木戸孝允、大村益次郎、伊藤博文、井上馨、山縣有朋等。人名は流し読みでよいが歴史上の行動はしっかりと押さえなければ流転がわからない。個人を知ればそれぞれの立場に於いての正義の理論がある。中級者以上の読者はそこまで詰めて学べるようにしたい。

薩摩藩は一般論で言えば藩財政に余力があったことが大きな要因である。恐らくここで多くの異論があろう。薩摩藩は当初から財政に余力があったわけではない。今でも鹿児島県は農業立県である。近世時代に財政改革をしたのは藩の家老調所笑左衛門の手腕で、砂糖の特産化の指導に成功したことにより、財政改革を軌道に乗せた。

他に琉球や台湾などとの交易も支配下に入れさらに加速した。密貿易等の話もあろうが、ここでは敢えて省きたい。それよりも薩摩氏族島津の歴史と誇りが、徳川幕府の二四〇余年間の尊大さと、日本沿岸に出没する外国船に対する幕府の対応に不満が大きな要因であったと、ここでは筆者は推理したい。

薩摩の志士たち。西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、黒田清隆、桐野利秋、西郷従道、村田新八あたりは知りおけば時代の流れが掴みやすい。

次に薩土盟約(盟約とは家臣など個人単位の約束事)をみよう。

土佐藩は山内家である。四国の最強士族であった戦国大名長曾我部元親一族が、一時は四国全土に近い領地を支配した。その後、豊臣秀吉に平伏し土佐一国を安堵された。その後、関ケ原の戦いで西軍についた長曾我部元親は敗走し、長曾我部は改易されその後に山之内氏が入植した。

ここで奇妙な藩制が敷かれた。長曾我部氏の時の家臣は下士で山之内家の家臣は上士であるとしての区別が特に厳しいお国柄となった。家来の武士達に上下の違いがあるのは珍しくない。しかし土佐藩は特に厳しい制度として徹底していた。このことはあまり知られていない土佐藩の歴史である。

これは元の領主は長曾我部であったが、その後、山内氏が入植してきた為そこで特技を持つ者は別にして、一般的には従来の家来と住民は親戚や知人を頼って散逸する。無条件に家臣とはしない。長曾我部の時の郷士が、其のまま、山内氏に収束されて農耕武士として召し抱えられた。

一般的にこの時代は士族と農民は分離されているが土佐藩では農民豪士であった。日頃は下級士族であり政事には関与せずひたすら農耕に励むを職とする者の集団。因みに坂本龍馬も岩崎弥太郎も下士、豪士の身分であった。