薩摩・長州・土佐の「討幕」活動に遅れて参加した肥前佐賀藩の志士たち

佐賀藩の第十代藩主鍋島直正なべしまなおまさ閑叟かんそう)並びにその家臣たちは、優れた人材と武器・兵器を持っていたが、故あって討幕運動に遅れ、「薩・長・土・肥」の中でひとつ異色な志士団の存在として語るべき部分がある。この部分は後に触れる明治六年政変の「征韓論」の西郷隆盛と大久保利通の一見不仲と評せられる所以になる大きな要因であるため、読者は読み取れるまでは前に進めないことを思われたい。

佐賀鍋島藩の藩政事情。拙本の前作、彷徨える日本史シリーズ第三弾『葉隠』(三五頁~四一頁)に詳しく記載したが、佐賀藩三五万七〇〇〇石は、徳川幕府より「長崎御番役ながさきごばんやく」として、福岡黒田藩五〇万二四〇〇石と、一年交代で長崎港と天領長崎の治安を長崎奉行の支配の下にすべく、年間一〇〇〇人以上の武士を配備する義務を仰せつかっていた。

固を目指し、江戸幕府が開設(一六〇三)される前の戦国時代の領主である、龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶより複雑な経緯をもって佐賀藩を継承することになった。それは佐賀藩内に少数部族ではあるが、故あって先代一族の龍造寺隆信の跡目を引き継ぐことになった。その為、分家一族の所帯数が多く、外見上の石高である三七万五〇〇〇石の財力はなかった。

それ故、討幕よりも鍋島藩の財政と藩政改革を進めることが、まず先行されねばならない致し方ない事情があった。一〇代藩主鍋島閑叟は年若き時から、藩士に対して「『葉隠』山本常朝の武士道精神」の徹底と、佐賀弘道館での人材育成と藩政改革に励み、「薩摩・長州・土佐」とは幾分見識、視野方向の異なる見識での尊王攘夷論を唱える一方で、徳川幕藩体制に不安を感じていた。

殊に「長崎御番役」の役務上、オランダ船に接する機会が増え、チャンスを逃さず外国情報に強くなり、ヨーロッパ諸国の産業革命後の野心とあるべき行動を理解していた。近海沿岸に現れる列強国、アメリカ、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ船の貿易事情も入手していた。

取り分けイギリスによる中国に対する「アヘン戦争」が仕掛けられ、同じアジア諸国の不利な条約の交易実態を熟知していた。所謂、地政学の範疇である。

このあたりの流れから、佐賀藩主鍋島閑叟は徳川幕府に頼るだけでこの難事は乗り切れないかもしれないという不信感から、武家政権では日本国の統制支配は無理がある。ここは今までの様な天皇と徳川幕府の一国二君制の体制を、天皇を中心とした一国一君制に変えて、日本国が一丸となって諸外国に対抗すべきという持論を展開した。

薩摩、長州の唱えた尊王攘夷派とか公武合体派とは角度を変えた改革論である。そこで佐賀藩は単独でその武力と行動で天皇家と朝廷を守ると言い切った。やや勇み論的視野が先行して、「薩・長・土」と組むことなく、単独で孝明天皇や側近の関白近衛忠煕このえただひろ姉小路公知あねのこうじきんとも公達きんだちに接近した。

それも藩主の鍋島閑叟自身が直接、公卿に面接し鍋島藩の優れたる鉄製の大砲、武器を自慢した。しかし、いきなりの自慢話ではさすがに朝廷も俄に得心出来ない。その鍋島閑叟の自慢話は薩摩、長州に即刻に知らされた。薩摩も長州も怒りを露にした。佐賀藩鍋島の先駆け、許すまじと息巻いた。