「薩・長・土」と「薩・長・土・肥」は時代の違い

「討幕」の初期段階での連合軍の構成に肥前鍋島藩の名前がない。これは単なる構成のミスではない。

明治六年政変に大きく影響を与えたこの西国諸藩の扱いが何故に違うのか。そこをここで詳しく理解しないと明治新政府のてんやわんやぶりが歴史学として活かせない。

討幕参加に後れをとったその後の鍋島藩の志士たちが決起した「佐賀の乱」の意味合いがわからないことになる。そのときどんな勢力がどのように働いて、肥前鍋島藩(以後肥前とする)が出遅れたのか、再度確認しよう。

既に触れたように、近衛兵を組織するときに総大将西郷隆盛が、天皇の護衛は「薩摩・長州・土佐」で構成する旨を提案しており、周囲の合意もとれている(明治四年)。つまるところ、肥前の力をあてにしなくても政局の状況からして、何ら問題なしという薩摩、長州、土佐の要人と太政大臣三条と大納言岩倉具視(長州贔屓(ひいき)の公卿)の意見を正したことによる結果である。

この所見の詳細を見れば異論は多かろうが、ここは敢えて簡素化した説明をしたい。一般的な通説を見れば討幕に貢献した勢力の是非を問わずみれば「薩・長・土・肥」の志士によるところが殆どであり、それで全体像を外してはいない。寧ろここでは「薩・長・土・肥」に絞って捉え、更に余裕のある読者は、その周辺の登場人物に広げて解釈されたい。

その時点で拙本に異論があれば、明治維新の解釈が進んだものと僭越であるが思いたい。討幕思想の初期段階では薩摩藩、長州藩、土佐藩の徳川幕藩体制に不満が強かった藩主と藩士たちの行動から始まった。そこに日本国の将来を案じた西国の三藩が、尊王攘夷説を唱えて同盟関係を結んだ。そこをみよう。