直球で先行学者に伺いたい、エビデンスはどこにある。歴史は浪漫だけでは語れない。最大の問題点は、この歴史用語や解釈が今日まで放置されていたことの上に、日本史学界が安住してきたことである。放置であったのか学会指導者の研鑽(けんさん)不足なのかは知らない。ただこの程度の学識、見識を改めるのに、何故これだけの時間と時代を要したのかわからない。

歴史学は遡って歴史上の人物に接見できないのは当然である。従って学術的な事実が判明すれば、速やかに議論に掛けて正しき方向に訂正すべきであろう。そこは筆者もやぶさかではない。しかし、事実、これほど大きな案件が研究の対象にならなくて、事実と思しき学問の定形が後世に学習されないとしたら先行学者の努力は評価できるものとはいいづらい。

細かくみればそれなりの論拠はあるであろうが、近世江戸学の学術に徳川政権のあり方について異論がありとするならば、どんな勢力がそれを阻害してきたのか、浅学、管見の筆者にもわかるようにご説明頂きたいものである。この点では完全に彷徨える日本史そのものである。筆者と共に奮起しよう。

本来、天皇家が国家の聖権(せいけん)を全て持つのが正論としたならば、徳川政権の慶応八年(一六〇三年)からの二六四年の天皇一族と、それを取り巻く公家衆は日々何を考えて徳川政権に対抗していたのか。唯々諾々(いいだくだく)と永らえてきたのか、そこを全く説明出来ないと彷徨うことになり、筆者は読者と共にいらざる心配をしたくなる。こんな様子ではどうして賢者は歴史に学ぶことが出来ようか。

恐らく筆者が声を荒げて言えるようでない難儀な解釈があろうと想像はするが、拙論(せつろん)を避けて慎重にと言う態度だけでは時間は流星の如くある。IT、リモート時代の学問姿勢としてはお粗末で、若者たちは歴史学の評価を避けていくことになる。ここは多数のお叱りがあるのを承知でその努力に敬意を表しながらも差し出がましい一言を具現させて頂く。