第2章 かけるくんの子ども時代

3 小学校時代

こうしてかけるくんが普通に小学校に通えるのも、お姉さんが前例をつくってくれたおかげでした。しかし、お姉さんが小学校に通い始めたころは、何から何まで問題が起きて大変だったそうです。何をするにも一つずつ問題を解決しなければならず、かけるくんのお母さんはすごく苦労しました。

しかし、かけるくんはお姉さんの次に小学校に通ったので、小学校の先生方も事情がわかっていました。かけるくんの担任も、お姉さんと同じ先生にしてくれるなど配慮をしていただきました。そんな感じで、お姉さんが築いた道をかけるくんはのらりくらりと歩いていきました。そして、最初の2年間だけ普通小学校に通う予定でしたが、結局6年間すべてを普通小学校で過ごすことになりました。

勉強のほうはというと、かけるくんは算数と理科、社会が好きで、国語と英語は苦手でした。理科では生物が、社会では歴史が好きでした。英語は最も嫌いな科目でした。教科の得意・不得意は脊髄性筋萎縮症とは関係ないようです。

書道の時間には、隣の女の子がかけるくんの似顔絵を筆で書いてくれました。かけるくんは少しパーマがかかった髪質をしていますが、それを上手に筆で表現しているのが笑えました。また、図書委員になったときは、必ず2時間目の休み時間に図書室に行って、真面目に任務をこなしたので先生に褒められました。

愛知医科大学の記録では、小学校1年生から6年生までの6年間に10回、肺炎による入院がありました。そのため、かけるくんは感染を予防するためにいつもマスクをしていました。4年生のときの明治村での遠足で、おまわりさんの格好をしている写真が残っています(写真1)。

[写真1] 明治村への遠足の写真。一人だけマスクをしている。まだ、右手は肘を浮かして、口の高さまで持ち上げることができている。

ほかの子はマスクをしていませんが、かけるくん一人だけマスクをしています。風邪を引かないように心配したお母さんが、いつもかけるくんにマスクをさせていたのです。

かけるくんは公文式にも通いました。計算が早かったので、楽しく勉強しました。しかし、途中から肺炎を起こして入院することが増えました。かけるくんは公文を続けたかったのですが、入院のせいで満足に通えなくなったので、公文はやめることになりました。かけるくんのお母さんは、かけるくんが肺炎で何度も死にかけていたので、たとえ勉強ができなくても、元気で過ごしていればそれで十分だと思っていました。

ほかにも、運動会では騎馬戦の合図をする役をいただきました。かけるくんはあがり症なので、合図をする前はとてもドキドキしていました。騎馬戦自体には参加できなくても、行事の重要な役割を果たした経験はとても貴重だと思います。そのような配慮をしてくださった小学校の先生方には頭が下がります。小学校6年生のときには、修学旅行で奈良と京都に行きました(写真2)。

[写真2] 奈良の鹿との写真。体の角度がずれており、かなり側弯が進行していることがわかる。目線はほぼ水平だが、右肩が上がって左肩が下がっている。胴体を支えるための幅が広いベルトを着けている。

校長先生がリフト付きのバスをレンタルしてくださり、電動車いすで参加しました。バスのなかでお菓子をもらったり、みんなで歌を歌っているのにかけるくんだけ歌わなかったり、奈良では鹿にせんべいを取られたりしました。

たまたま、テレビをつけたらプロ野球の日本シリーズをやっていました。中日ドラゴンズは負けていました。かけるくんは中日ドラゴンズを応援していたのでがっかりしました。このように、校長先生をはじめとした学校の先生方の配慮で、かけるくんはほかの生徒と同じように修学旅行を楽しむことができました。

幼稚園から一緒に小学校に行った友だちも多かったし、1学年で1クラスだけだったのでクラス替えもありませんでした。1年生から6年生までみんな仲良く過ごしました。この時期には、介護が必要なときだけお母さんやヘルパーさんの助けを借りていましたが、それ以外の時間はほとんど友だちと過ごしました。

障害者では親離れ・子離れが難しいといいますが、すでにかけるくんは親離れ・子離れができていました。障害がある分、普通のお子さんよりよほど精神的に自立していたと思います。