第三章 沖縄での生活

2 徐々に回復し始めた沖縄 

獣医師としての父の活躍

初特に馬は、多分に米国の荒野で放牧されたもので、本来の馬に比べても体が大きく気性も荒かったものですから、その調教に父は大変てこずったものでした。やっとの思いで鞍(くら)を着け荷馬車にセットしたものの、ブレーキをかけた状態でも暴走するような気性の激しい馬で、農家で使用できるようになるまでに数カ月も要したと思われます。

賀数部落にも仮の製糖工場ができ、馬車にサトウキビを積んだ例の調教馬が、せっせと運んでいる姿を見て喜んだものです。

その後も家畜の病気の予防に、治療に、あるときは夜半にも難産の牛馬の出産のために馳せ参じ、獣医としての使命感に燃えた父の姿に大きな感銘を受けました。将来、私もこのような崇高な仕事に携わる職業を目指して頑張ろうと、少年の志として決意したものでした。

終戦直後の飢えに苦しむ貧しい生活からやっと一段落し、解放された頃、住民にとって最大の楽しみは、各部落で創意工夫して催された村芝居でした。

村を挙げての芸術祭

青年たちは琉球古来の舞を、学生は演劇や童謡を合唱し、私は、どなたに教わったか記憶はありませんが、向こう鉢巻きに袴姿で詩吟を舞い、満場の拍手喝采を得て我ながら悦に入ったものでした。

また、隣部落では沖縄独特の棒術や、雄綱と雌綱が合体して引き合う大きな綱引きが挙行されました。糸満漁港では、漁師による爬竜船(はりゅうせん)で大いににぎわい、戦争ですっかり荒んだ沖縄の人々の心を癒したものです。

アメリカナイズされる沖縄

時とともにアメリカをはじめ連合国の影響も、良きにつけ悪しきにつけ流入してきました。特にコザの街は白人や黒人が街中を闊歩し、表の看板は横文字が大半で、まるで外国の様相を呈していました。

日本国民でもなく米国籍でもない沖縄の人々は、貨幣も米ドルか、琉球民政府発行による“B円”と称するものを使用し、島外に出る際も琉球列島米国民政府(USCA)発行のパスポートによる検閲が必要でありました。

前述のような村の娯楽以外、特に楽しむ術がない時代ですが、那覇の映画館で初めて総天然色(カラー)映画が上映されていることを知り、中学生の頃、放課後に一人で八キロメートルの道をてくてく歩いて鑑賞に訪れました。

『子鹿物語』というタイトルで、初めて観るカラーの画面にくぎづけになり感嘆したものでした。優に2時間を超える映画で、スクリーンの余韻に浸りながら帰路につくも、空腹しのぎに道端に植わっている砂糖黍(きび)をはし折りかじりながら、月明かりを便りに夜半に帰宅しました。

遅い帰宅の言い訳をするいとまもなく、両親にこっぴどく怒られたことも、今では懐かしい思い出の一つです。

さらに、総天然色映画の魅力に惹かれ、その次は休みを利用して再び那覇に出て、『黒水仙』という映画に満悦したものでした。

このように、外国の文化の一端に触れられたことが、外国への視野を広げ成長の糧になったものと信じています。

勉強も工夫次第

ほとんど受験勉強らしい勉強をせずに、時間だけが経っていきます。学校は一クラスに四〇人ぐらいいて、二クラスありました。その人数に対して教科書は、五、六冊しかありません。ですから、勉強などできるはずがありません。仕方がないので、かわりばんこにその教科書を写すことにしました。

もっとも、教科書といっても普通の教科書ではなくて、琉球政府時代の文教局のような、今の内地でいう文部省のような部署が、ガリ版刷りで作っている教科書でした。それを一日交代で写していました。

写すといっても一晩で写せるページ数など、たかが知れています。さらに、夜にはライトもない時代でした。思いあまった私は、リンゴ箱ぐらいの大きさの箱を作り、上のほうだけ穴を開け、そこに車の窓ガラスから取ってきたガラスを置いたものを作りました。

戦争でここかしこに廃車になった車がたくさん放置されていましたから、窓ガラスは難なく入手できました。リンゴ箱の下に灯油で灯(あか)りをつけて、ガラスの上に教科書を置き、その上に紙を置くと文字が透けて見えますので、その文字をなぞっていきます。

そうすると、教科書を横に置いて、いちいち見ながら紙に写す必要がないものですから、ほかの生徒の五倍ぐらいのスピードで教科書を写すことができました。

紙も正式の紙ではなくて、現在豊見城(とみぐすく)にある沖縄(同会館のHPより)空手会館辺りが米軍のチリ捨て場でしたから、そこまで行って、まだ使われていない紙を拾い集めて使用していました。

中には読めない字もありましたが、あれこれ考える必要はありません。上からなぞるだけですから教科書どおりの字となります。それを私が教室に持参したら、級友たちもびっくりして、さっそく私のまねをし始めました。

灯油からの灯りの効果をより高めるために毛布をかぶりましたが、夏の暑いときでしたので汗まみれの数時間でした。

それこそアイデアでした。ただ、これには欠点もありました。毛布にくるまって下から灯油を燃やすのですから、朝にはもう、鼻がすすだらけになっているのです。まるで鼻が煙突のようでした。

しかし、教科書を書き写すことで、書いてある内容が覚えられるという効果は絶大でした。

※本記事は、2020年3月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 下巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。