第三章 沖縄での生活

2 徐々に回復し始めた沖縄 

高校生になってからの日々

それなりの受験勉強をするいとまもない中、いよいよ高校受験が近づいてきました。家から四キロメートルほどの距離にあった県立糸満高校は、近隣離島からの受験生もあり、加えて南部一帯中学六校からの応募者で、かなり厳しい状況が予測されましたが、運よく合格することができました。

授業は中学同様の茅葺き校舎で、一部が軍払下げの蒲かま鉾ぼこ型のコンセント造りのため、夏場の教室内の温度は摂氏三〇度を超え、雨の日は屋根にたたきつける激しい音で授業も中断せざるを得ない環境でした。

そのような高校に当初は、てくてくと歩いて通っていました。雨の日も風の日も傘がないものですから、米軍の雨がっぱを利用していました。

高校二年生になった頃、父が何処(いずこ)から探してきたか分かりませんが、自転車を手に入れてきました。自転車とはいうものの初めて見たもので、万年タイヤと言って硬いタイヤの代物です。走るとカタカタ音がしました。空気の入ったチューブがない代わりにパンクはしませんでした。

級友も村の人たちも、てくてく歩いていったところを、私はこの自転車で高校まで通いました。さっそうと自転車を漕いでいきますと、皆がうらやましがったものです。

農家の皆さんの米軍兵士への抵抗

当時、高嶺村には、こんこんと水の湧き出る泉がありました。那覇は戦禍で水道もない状況でしたから、米軍はこの泉から那覇までパイプを通して水の確保を計画しました。

イモや野菜畑の中を平気でパイプを通し、その工事の最中、あろうことか貴重なイモを米軍の兵士が掘り起こして食べているのです。怒りを覚えた農家の人たちは、豚小屋を洗った後に出る水肥をイモ畑にばらまきました。その頃には父が持ち込んで繁殖させたブタが、あちこちの農家で飼われていましたので、豚小屋もけっこうありました。

そうとは知らずに、米軍兵士は相変わらずイモやネギをかじっていました。

おそらく下痢をしたことでしょう。目には目をということです。食べ物の恨みは怖いということを、米軍兵士も思い知ったはずです。

思わぬ拾い物

ある日の下校中のことでした。自転車を漕いでいると、ちょうど私の前を大きなトラックが荷物を満載して通っていきました。すると、私の二、三〇メートル先でそのトラックから荷物が落ちてきました。大きな箱でした。弾薬かと恐る恐る中を覗いてみると、缶詰のトマトジュースでした。トマトジュースが一ダースも入っていたのです。

箱ごと落ちたのに、トラックの運転手は気づかずに走り去っていきました。そこは、米軍のトラックやジープが通っている道でしたから、大急ぎで他の米軍車輌が来る前に、ススキの中に隠しておきました。そして夜、部落の人たちを伴って持ち帰り、皆さんで分け合って飲みました。

大学受験のために上京

日々変化に満ちた中学時代を経て、高校の三年間は瞬く間に過ぎ、いよいよ大学を目指して上京することになりました。

沖縄では、戦前の首里城が戦災で失われまして、そこに琉球大学ができていました。今では別の場所に移転しています。その近隣に沖縄県立芸術大学が創立され、琉球芸能・文化の礎となっています。

当時、その琉球大学はできたばかりで、医学部、獣医学部などはなく、六学部があっただけです。獣医師になることを目指していましたので、沖縄の大学を受けてもしようがないということになりました。父が出た大学の獣医学部を受けようと決めて東京に行くことにしました。運よく、父の姉が東京で学校の先生をしていたのでそこを頼って行くことにしました。

琉球列島米国民政府の高等弁務官発行によるパスポートを携帯の上、終戦後、外国からの邦人引き揚げに使用されていた「白山丸」という船で上京しました。

糸満高校の卒業式前でしたが、その船がちょうど沖縄から東京に行くということで、急遽乗船することにしました。

那覇港から、五色の紙テープを手に多くの人々に見送られて出港する際、日傘の先にこの紙テープを巻きつけて一際目立つように大きく振りながら、汽笛と銅鑼(どら)の鐘とともに出港した船と並走し、港の突端まで走って着いてくる母の姿がありました。その姿を眺めながら、やがて沖合へと船は進み、人影が見えなくなるまで独りデッキで佇み、しばしの別れを惜しみ涙したものです。

おそらく母も船影が遠く消え去るまで、初めての息子の独り旅を案じ見送っていたことは、想像に難くありません。

父母の教えは今も忘れません

大学受験に旅立つ数日前の早朝、父母に起こされ、庭先に出ると朝日に輝き戦火で辛くも活き残ったユウナの木の間から、ひと際伸びた一本の孟宗竹が右へ左へと風に揺らいでいました。

しばし眺めていると、母が語りかけてきました。

「良一、これから君は大都会に出て学び、多くの体験をして成長しなさい。そして、あの孟宗竹のようになるのだよ。上に伸びれば伸びるほど他人から注目され、良きにつけ悪しきにつけ語られるものだ。心して自らを磨き上げてきなさい」。

この旅立ちに当たっての母からの忠告が、私の人生訓にもなっています。

※本記事は、2020年3月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 下巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。