【前回の記事を読む】新聞に載っていた小さな写真…「こいつがあの男だ」と確信した

成城の家

その家は都心から郊外に延びている私鉄の最寄りの駅から徒歩十分、都心まで電車で三十分という理想的な立地条件の所にあった。周りに駅近で高いビルが林立する中、そこだけは時代から忘れ去られた様に木々に囲まれ、木蔭にさえぎられて建っていた。家の近くには太平洋戦争後の東京裁判で断罪された軍人の旧居跡の石碑がある。

そしてその家は家と言うより手入れを怠った雑木林と言った方がいいほど荒れていた。やや傾斜のある台地は古い苔むした石垣に囲まれ、長年手入れのされていない伸び放題の樹と雑草のせいで中の様子は全く分からなかった。古びた木の門扉は今にも壊れそうで真ん中に向かって傾いている。二枚の扉のカンヌキは錆びた鎖でくくりつけられ辛うじて門の役割を果たしていると言った風情だった。

その鎖を外して扉を開けると長い間人通りがなかった為に半ば土に埋もれた石畳が奥の平屋の木造家屋に続いている。敷石は苔むし、所どころ崩れている。夏の終わりのうっそうとした木々の梢には小鳥が小さな群れをなして止まっている。

広角レンズで鳥たちの姿を追いながら彼は音を立てないように歩いて行く。古い家屋の斜め前にはこれも年代物の石灯篭が少し傾いて立っていた。人気のない邸内は庇が傾き、締め切った雨戸は風雨にさらされそこだけ時間が止まったかのように静かな平安が漂っていた。

彼は時々立ち止まって辺りの光景を一つ一つ確かめる様にゆっくりと見回しながらその庭を歩き回った。あたかもこの世から姿を消して久しい人々と会話でもしているかのように何やら深い物思いに捕われている様だった。しかし彼の思いは遮断される運命にあった。

突然彼は緑の木立の中でひょっこり若い女と出くわした。彼らは互いに相手の出現を予想もしていなかった様子だった。二人とも互いの姿に驚き慌てた。出来るならここに自分が居ることを他人に見られたくなかったという様に。

若い女は怪しむように、ジーンズに迷彩柄の半袖Tシャツ、同じ迷彩色の帽子、そして未だ買って間もないらしい交換レンズ付き一眼レフカメラに目を落とした。それは実は彼が去年まで勤めていた会社を辞める時に貯金をはたいて買った自慢のカメラだった。彼女の目は声には出さないがあなたはこの家で何をしているのかと言いたげだった。

彼は彼女を無視するべきか一瞬迷った。しかし彼女の無言の問いかけに弁明するかのように言った。

「僕は東京都内の古い民家を探索して写真を撮っているフォトグラファーなんですよ」そして弁解がましく付け加えた。「勝手に庭に入り込んだが怪しい者ではありません」

辺りに家が立ち並ぶ中でここは街中の貴重な鳥たちのオアシスになっている。庭には小さな池もあった。緑の生い茂ったこの庭には春には色んな鳥がやって来る。ツグミやムクドリ、シラサギもやって来る。それに噂では今では珍しい四つ足動物、タヌキやイタチなども出没しているという。残念ながら彼らは夜行性だが鳥たちだけでも被写体に入れて撮るときれいな絵になる。

彼は今撮ったばかりのツグミの写真を彼女に見せた。高感度のレンズが捉えた鳥の姿は目にくっきりと鮮やかだった。彼は逆に若い女に尋ねた。

「あなたはここで何をしてるんですか?」

「この家は私の祖母の家です。祖母は足が悪くて歩けないんです。だから生まれた家を見せて上げようと思って連れて来たんです」

彼は驚いた顔をした――だが何も言わず質問を続けた。「お祖母さんはここに来ているんですか?」

「ええ、居ます。あっちに――」彼女は建物の方向を指さした。

彼はそれ以上質問しなかった。若い女は向きを変えその地所の奥に建っている、傾きかけた古い木造家屋の方に歩いて行ってすぐに姿を消した。