ただし、『伽藍縁起』の冒頭付近と末尾付近には、大化三年歳次戊申九月廿一日に許世徳陀高臣こせのとこだこのおみという人物の宣命によって食封じきふ三百戸の納賜が開始され、三十年余り後の天武天皇八年(六七九)に停止されたと記載されています。食封とは充てられた各戸が納める租の半分と庸調の全部を収受する権利のことで、寺院などにおける主要な収益源の一つです。

この食封の性質から、食封三百戸の納賜が伽藍整備のための財源という可能性もあるのですが、食封が開始された大化年間は天智紀が伝える法隆寺大火災の二十年余り前であり、食封が停止された天武天皇八年(六七九)は天智紀の法隆寺大火災の九年後です。

つまり、食封三百戸の開始と停止が、天智紀の法隆寺大火災とほとんど無関係に行われているのです。この食封三百戸が何を目的として納賜されたのか不可解ですが、これまでの研究では明らかになっていません。

このように、表立っては何も語らない不思議な『伽藍縁起』ですが、法隆寺の再建に関して重要な情報を残してくれています。それは法隆寺再建の完成時期を推定するうえで重要な情報で、今日でも実際に見ることができる五重塔の初層四面の塑像と中門左右の金剛力士像が、和銅四年(七一一)に完成したという記録です。

和銅四年(七一一)とは、元明天皇が太安万侶おおのやすまろに『古事記』の撰録を命じた年に当たりますが、この年までに法隆寺の五重塔と中門が完成しているのです。また同時に、この記述は少なくとも法隆寺の五重塔と中門に加え、金堂、回廊という一団の建物が、このときまでに完成していたという重要な情報を提供しているのです。