【前回の記事を読む】公式の資料も口を閉ざす「法隆寺大火災」…その裏に一体何が?

論より証拠

1 再建・非再建の論争

修学旅行などを通じて人々に広く知られた法隆寺は、二つの大きな建物群に分けられます。世界最古の木造建築とされる金堂、五重塔、中門・回廊などが建っているところを西院と呼びますが、法隆寺といえば通常は西院を指していることが多く、本書も法隆寺と呼んでいるのは西院を指しています。

法隆寺(西院)は創建当初には斑鳩寺いかるがのてらと呼ばれていましたが、その斑鳩寺の創建時期、焼失の有無、焼失したとするならば再建の経過など、明確なことは何も分かっていません。

一方、西院から三~四百メートルほど東に離れた、夢殿や伝法堂などがあるところを東院と呼びます。東院は推古朝に厩戸うまやど皇子みこ(後に聖徳太子と呼ばれる)の斑鳩宮として整備されましたが、皇極紀によれば、皇極天皇二年(六四三)十一月に焼失し、その後、天平期から順次再建が行われて今日に至っています。

前節で紹介したように、法隆寺(西院)の大火災については早く平安時代初期から疑問視する見方がありました。それが明治時代の中頃になって、法隆寺の焼失と再建に関する激しい論争に発展することになります。

きっかけは法隆寺の建築様式にありました。日本の建築史や美術史の研究者は、

「法隆寺の建築様式は古風で朝鮮半島や隋の影響が感じられ、唐の影響を受ける前のものであり、法隆寺は推古朝の創建当時のまま今日に伝えられたものである。また、天智紀に記された法隆寺の大火災については、天智天皇九年(六七〇)より干支一運早い推古天皇十八年(六一〇)のことであり、平安時代の聖徳太子の伝記なども天智紀が伝える天智天皇九年(六七〇)四月三十日の大火災を認めていない」

と主張しました。これに対し、当時の歴史・文学の研究者は、

「平安時代の聖徳太子の伝記などには間違いが多く、信用に値しない。正史である『日本書紀』に明確に記載されているのだから、天智天皇九年(六七〇)四月三十日の法隆寺大火災は間違いのない事実である。もし天智紀の法隆寺大火災の記事が間違いだというならば、その証拠を示せ」

と反論したのです。この議論において、法隆寺は天智天皇九年(六七〇)四月三十日に一度焼失し、その後再建されたものが今日の法隆寺であるとする主張を「再建論」と呼び、法隆寺は創建当初のまま今日まで続いているとする主張を「非再建論」と呼びます。

この再建・非再建の論争は、明治中頃から昭和初期までの数十年間、双方歩み寄ることがないまま続くことになりました。再建・非再建の論争は時間を追って激しさを増しましたが、非再建論者は天智天皇九年(六七〇)の法隆寺大火災の記事は間違いであることを裏付けるため、さまざまな角度から資料を提出して再建論を覆くつがえそうとします。

一方の再建論者は、

「正史の『日本書紀』に書かれているのだから間違いはない。再建論を覆したいならまず『日本書紀』の記述を覆せ」

と繰り返すのでした。非再建論者は、法隆寺が創建当初のままであることを裏付けるため、涙ぐましいほどの努力を続けます。しかし、『日本書紀』という正史の堅固な牙城を切り崩すことができず、非再建論は次第に厳しい状況に追い込まれていきました。

そして、昭和十四年(一九三九)、非再建論を打ちのめし、この論争に一定の決着をつける決定的な証拠が現れることになります。