【前回の記事を読む】【日本史】自信家な歴史書編者が見落とした大きなミスとは?

扶桑略記ふそうりゃくき

『扶桑略記』は、平安時代後期に比叡山の僧が編纂したとされる歴史書で、多くの史料をもとに仏教家の視点でまとめられ、他の史料にはない独自の情報を多く含んでいるという点で、古代史研究には欠くことのできない重要な史料となっています。その『扶桑略記』にも法隆寺の火災に関する記述があり、次のように記されています。

(推古天皇)十五年丁卯四月卅日。夜半。斑鳩寺火災。

この記述は推古天皇の箇所に置かれ、(ひのと)()の推古天皇十五年(六〇七)四月三十日の夜半、斑鳩寺で火災があったと記しています。

ここでは推古天皇十五年(六〇七)の干支を本来の丁卯としており、『伝暦』が推古天皇十五年(六〇七)の干支を庚午として誤っていたのに対し、『扶桑略記』はそれを推古天皇十五年(六〇七)本来の干支である丁卯に訂正しています。

『扶桑略記』は推古天皇十五年(六〇七)の年次表記は正しいと見る立場から、干支を庚午から丁卯に訂正していますが、一般的には漢数字の間違いは起こりやすい傾向にある一方で、画数の多い干支の間違いは起こりにくいという見方があり、干支に合わせて年次を訂正することで問題が解決する場合が多いように思います。

しかし、『扶桑略記』の編者は、推古天皇十五年(六〇七)を正しいと考え、敢えて干支を修正しています。このほか、『扶桑略記』は天智天皇八年(六六九)の条で、「同年。斑鳩寺火」と記載しており、この点は天智紀の記述と一致しています。

一方、『扶桑略記』の天智天皇九年(六七〇)の条には、天智紀が伝えるような法隆寺大火災の記述は見当たりません。『扶桑略記』は主に『伝暦』系の史料を参考にしながら編纂されていると見られますが、天智紀が記載する天智天皇八年の火災記事を採用する一方で、同じ天智紀が伝える天智天皇九年(六七〇)四月三十日の法隆寺大火災記事を完全に無視していることになります。

時代が下るにしたがって史料のつまみ食いと辻褄(つじつま)合わせばかりが上手になっていきますが、矛盾の裏に隠された真実を解明しようとする姿勢は薄れていくようです。ただ、『扶桑略記』にも貴重な情報が含まれていることを忘れてはなりません。

それは、『扶桑略記』が法隆寺の火災を推古天皇十五年(六〇七)四月三十日としていることで、他の史料と同様に、天智天皇九年(六七〇)四月三十日とする天智紀の記述を認めない立場であることです。