他の高等部の生徒が、転んだ幼児の目の前で言葉にならない声を発しながら、懸命に手話を行う。しかし、決して抱き起こそうとも、手を引っ張ろうともしない。

必死の形相で、「立て、立て」と動作で示すのだ。その内に紅白の組に関係なく、小学部、中学部の生徒が、その幼児の周りに集まって来る。遠くから見る者にとっては、何が起こっているのか判らなくなってしまう。しかし、このろう学校の職員たちは、この人だかりの中で、どんな感動的な状況が展開しているのかをよく知っている。

その子が泣きやんで立ち上がり、再びバトンを持って走り出すまで、全員の手話の応援は続く。その中で、一人として、その子に直接手を貸そうとする生徒はいない。後から聞いたところ、抱き起そうとする両親の手助けさえも、制されてしまうそうである。

中学部や高等部の生徒たちは、先々、自分たちの人生において、安易に自分以外の人を頼ってはならないことをよく知っている。一人一人が自分の力だけで、自分の運命を切り開いていかなければならないことを、同じ境遇の仲間たちにも伝えなければならないと強く感じているのである。

この県内に、ろう学校は二校しかない。どんな遠くの地域でも、その二校のいずれかに通学しなくてはならない。スクールバスが迎えに行くのは、近隣の一部の地域のみである。小学部一年生以上の生徒は、自分の脚と判断で、電車を利用して、駅から徒歩で通って来るしかないのだ。

学校教育において、「指導」という言葉に代わって「支援」という言葉がよく聞かれるようになった。国語辞典でその意味を問うと「力を添えて助けること」と記してある。しかし、その力の添え具合が大切である。時として、親であり、教師である私たちは、その力を添えすぎるのかもしれない。その場面に大いに感動しつつも、そんな思いにかられたのである。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『冬日可愛』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。