第一章 教えを導くということ

この章のはじめに

いよいよ、あと三か月で中学校の教員としての生活が終わろうとしている。思えば四十年間よく勤め続けてきたものだと思う。三年前に定年を迎え、再任用という形で働き続けてきたが、今年になって「もういいだろう」という気になった。これ以上勤め続けても、若い先生方の支えにはならない。かえって足を引っ張る結果になるような気もする。これくらいでもう潮時なのではないか。そう考え始めたのである。

四十年間の歳月の中で、合計七つの中学校を経験した。校長、教頭の職は望まず、国語の教師として現場の授業にこだわった。その道のりに後悔はない。「一人一人の教え子を覚えているか」と問われると到底、自信はないが、それでも数え切れないくらい多くの場面が記憶の中に刻み込まれている。そのほんのいくつかをここで紹介してみたいと思う。

南風先生の思い出

初めて中学校の教壇に立った際、もっとも不安だったのは、自分に書道の素養が全くなかったことだ。恥ずかしい話だが、家庭が経済的にあまり豊かではなかったため、書道の塾などには一度も通ったことがなかった。国語の教師になるための大学の書道の授業は、その大半が理論的な内容だったので、中学校卒業後、毛筆を手にする機会をほとんど得ないまま教職に就いてしまった。

当時は、一年生の授業の中に「書写」の時間が必修として設けられており、運悪く一年目からその授業を担当することになってしまった。今でこそ、生徒の前で自分が書いた字を披露しているが、当時の私の字は、どう見ても中学生の字に毛が生えたようなレベルだった。ただただ教科書の中の手本の字を写させ、練習させるという味気ない授業が続き、一大決心をした私は、「三十歳からの手習い」を始めることにした。隣町の書道塾に通い始めたのだ。

学校の近くの塾では、教えている生徒に出会ってしまう恐れがあるので、少々距離の離れた隣町の「南風先生」(仮名)の塾の門をたたいたのだ。ところが、この先生は、埼玉県全体でも著名な方で、私が教えていた学校の生徒も、遠距離にもかかわらず、何人か習いに来ていたのだ。しかもその生徒たちは、書道にかけては毎年、書き初め展で金賞を受賞し続けている優秀な女子たちだった。