台湾紅茶が生まれたフォルモサで

[写真4]代表的台湾茶産地と台北から埔里までの道のり

紅茶や飲料のビジネスを通じて茶の生産国を中心にいろいろな国に出張してきたが、隣国・台湾への訪問チャンスが来たのは、西暦2000年を過ぎ、入社20年以上が経過していた。会社は第2次大戦まで長年にわたって、台湾を生産拠点として烏龍茶や紅茶作りを行っていたので、それ以降も深い関わりのある台湾茶業の重鎮ともいえるようなお歴々の方々が、幸いなことに当時はご健在であった。

初の訪問先、台湾茶業の老舗企業で窓口をされていた80歳をゆうに過ぎていた方が、流暢な日本語で話しかけてきた。

「木が2本で林と読む。木が3本だと森になる。それでは、木が6本になると、何になるか?」

まじめに考えていると、

「それは、六本木です。……あなた東京に住んでいるのでしょう?」

いきなり日本人並みのダジャレで、肩の力も抜けた憧れの台湾到着だった。

そう台湾の別名フォルモサ(Formosa:フォルモーサ)とは、ポルトガル語で「麗しい」という意味だそうで、欧州からの大航海時代に、憧れの航海先であったことが想像される。

今回の紅茶見聞録は、麗しの国フォルモサ、隣国台湾の昔に思いを巡らし、現代のフォルモサティーである台湾茶をじっくりと味わってみることにしよう。

ちなみに、近年の台湾は、茶の生産量より輸入量が大幅に上回っているが、台湾だけでしか作ることができない特徴ある高級茶の評価が高まり、米国や日本への輸出量は、毎年鰻登りで伸びてきている。

台湾での茶の栽培は、1810年頃に対岸の大陸厦門(アモイ)より台湾北部に茶樹が持ち込まれたことに始まる。その後徐々に生産量を増やし、1824年頃には、かなりの量の台湾茶(Formosa tea)が、厦門に船で送られていた。

その頃の台湾茶は、一旦火入れ設備のある厦門や福州に運ばれ、再生・仕上げ加工が行われて、それから再び船(ティークリッパー)に積まれ欧米に輸出されたとの記述がある。

1868年頃になると、英国人ジョン・ドッドの会社によっていよいよ本土(現在の福建省)の火入れ加工設備と技術が導入され、翌1869年にはテスト的にアメリカニューヨークへと出荷される。

この茶は、フォルモサ・ウーロンティー(Formosa Oolong tea)として、好評を博し、とんとん拍子で輸出量を伸ばすこととなった。続く20年間の間に、年間輸出量二千二百万ポンド(約1万トン)を記録するまでに成長した。同時に、中国の本場福建省からも多くの開拓者達が茶の生産、輸出に乗り出して来て、英国からの外資に代わり大半のシェアを獲得するようになる。(*1)

一方この時期19世紀後半は、英国の植民地であった北インド・アッサムやセイロンでは、英国人たちによる紅茶産地開拓と増産の黎明期に重なっている。そんな時代背景もあって台湾の茶が、欧州ではなく、主にアメリカの需要に向けられたとも考えられる。

アメリカ向けに主に輸出されていたのは、台湾烏龍茶(香檳烏龍茶・シャンピンウーロン)であるが、台湾を代表するもう一つの烏龍茶としてやや発酵度が低く、華やかな萎凋香をもつ包種茶(Pouchong tea)がある。

包種茶自体は、鉄観音茶の本場・安渓より茶の種が紙に包まれて持ち込まれたのが、その名の由来とも聞いていた。しかし今回改めて文献を当たってみると、茶を精製後、半紙状の矩形の紙を2枚重ねた上に、約150gの製品をのせ、四方包みとし、外側に、店名・茶名など印判を押して販売したことから、「包種茶」と呼ばれるようになったそうである。(*2)

緑茶に近い軽い発酵度のこのお茶は、変質しやすく、香味を大切に維持するために、大切に紙に包んで販売したという説も、うなずける。

*1:“All About Tea – W.H.Ukers 1935”
*2:『中国茶の魅力』 谷本陽蔵 柴田書店