永禄三年(西暦一五六〇年)

昨年の永禄二年、将軍足利義輝公が朽木谷から京に戻られて最初の正月を迎えると、祝賀と己の栄達を願って、諸侯が次々と上洛してきた。

まずは尾張の織田信長が五百余の兵を率いて入京。南に今川義元、北に斎藤高政と強敵に挟まれる中、尾張の統治を将軍に認めていただくための上洛であった。

次に美濃の斎藤高政。父である斎藤道三を攻め滅ぼしたこともあり、〈斎藤〉の姓を改めるべく上洛した。将軍義輝公より〈一色〉の姓と〈義〉の偏諱を賜り、一色義龍と改名し、加えて治部大輔に任官し、将軍の相伴衆にも列せられた。

続いて越後の長尾景虎が五千の兵で近江坂本に入り、そこからは手勢のみを率いて二度目の上洛を果たした。小田原の北条氏により関東を追われた関東管領上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を譲り受けることについて、将軍の許しを得るための上洛という。結果、願い通りに〈上杉〉姓への改姓が許され、関東管領職にも就任し、喜び勇んで帰国した。

将軍義輝公は、上洛できない守護大名にも厚遇に接した。

甲斐の守護武田晴信を信濃守に補任する際に〈准三管領〉とし、細川・斯波・畠山の三管領家に準ずる家格を与えた。

奥州については、斯波氏末裔の大崎氏に替えて伊達晴宗を奥州探題に任じ、九州については、足利一門の渋川氏に替えて豊後の守護大友宗麟を九州探題とし、周防・長門の守護大内家の家督も与えた。

若狭の守護武田義統には、将軍義輝公ご自身の妹を嫁がせた。将軍家の女が守護大名家に嫁ぐのは足利幕府創設以来、初めてのことであった。

こうすることにより自らの支持者を増やすことに、将軍義輝公は躍起になっていた。

そうした栄達の陰で、逆に没落を余儀なくされた者たちへ長慶様は手を差し伸べた。

前管領の細川晴元は逃亡生活に疲れたのか、長慶様と和睦することになり、久方ぶりに入洛したが、長慶様より捨扶持として摂津富田の普門寺城を当てがわれ、嫡男の六郎ともども隠遁した。

信濃の旧守護小笠原長時と貞慶の親子は、将軍義輝公によって〈准三管領〉に遇された武田晴信によって信濃を乗っ取られ、流浪しているところを三好邸で庇護した。小笠原家は三好と同じく新羅三郎源義光を祖とする一族であり、長慶様としては見捨てることができなかったのであろう。

長慶様に儂も習って、美濃の旧守護土岐頼芸と頼次の親子を庇護していた。将軍義輝公より偏諱をいただいたうえに、相伴衆に遇された一色義龍こと斎藤高政とその父斎藤道三によって、土岐親子は美濃を追われた身であった。

家臣の栄達にも儂は一役買った。

儂の右筆の大饗長左衛門尉は、あの楠木正成公の末裔というのだが、河内の大饗に土着したのを機に、世を(はばか)って楠木の姓を捨て大饗を名乗るようになったという。

北朝に(あだ)なした南朝方の楠木正成公に関して、儂は朝敵赦免の執奏嘆願をしたところ、なんと、正親町天皇より朝敵赦免の綸旨を得ることができたのである。

(綸旨)

建武の頃、先祖正成朝敵たるにより、勅勘せられ、一流己に沈滞し(おわん)ぬ。然れども今其の苗裔(びょうえい)として先非を悔い、恩免のこと(なげ)き申入るるの旨聞こしめさるるものなり。弥奉公の忠功を(ぬき)んづべきの由、天気かくの如し。これを()くせ、以て状す。

永禄二年十一月二十日右中弁 万里小路輔房 (花押)

楠河内守殿