天文二十一年(西暦一五五二年)

相国寺の戦いの苛烈な様を聞いた近江在国中の将軍足利義輝公は恐れをなし、長慶様との和睦を模索している、と近江の守護六角定頼が長慶様に(ふみ)を寄越してきた。その定頼は正月早々に死去してしまったが、その息子の六角義賢が跡を継ぎ、仲立ちを務め、長慶様との和睦交渉が進められた。

長慶様が示した和睦の条件は、細川晴元を出家させ、細川京兆家の家督を細川氏綱様に譲ることの一点のみ。義輝公から示された条件は、聡明丸という晴元のまだ幼い息子を庇護し、身が成り立つよう計らうことと、将軍自身の上洛であった。

まだ正月気分も抜けやらぬ京の三好邸の濡れ縁で、長慶様は雪見酒を楽しんでおられた。

「弾正忠、どう思う」

「江口の戦い以後、京にあるのは次郎様(細川氏綱の通称)であらせられます。晴元様にはご出家されて当然かと。また、公方様を当方で囲っておれば、何かの役には立ちましょう」

「何かの役……か」

長慶様は含み笑いをして、盃を口に運んだ。

正月の末、近江朽木谷の仮御所を出られた将軍足利義輝公は、五歳になる細川聡明丸を伴って上洛した。

長慶様もご嫡男の千熊丸様を伴われ、近江と山城の国境(くにざかい)の逢坂までお出迎えになり、儂も随伴した。

義輝公は馬上で胸を張り、

「出迎え、大儀である」

と、一言だけお声掛けになっただけであった。

わざわざ国境(くにざかい)まで出迎えた者に対する、あまりにも素っ気ない将軍の態度に、

「貴種とはこんなものか」

と、少々しらける思いで義輝公の一行が通り過ぎるのを儂は見送った。

この和睦にあまり乗る気ではなかった細川晴元は剃髪し、〈永川〉と号し、僅かな従者を伴っただけで若狭国の守護武田信豊を頼って都落ちした。

二月になると、長慶様は幕府奉公衆に列せられ、次いで将軍義輝公の御供衆となり、細川家の重臣の立場から将軍家の直臣へと家格を上げた。

また、畏れ多くも朝廷より従四位下を賜り、位階としては将軍義輝公、細川氏綱様、細川晴元と同位になられた。

三月には、和睦の約定通り細川氏綱様が晴れて細川京兆家の家督を継ぎ、右京大夫に叙せられたが、幕府の実権はもはや、長慶様が握るに等しかった。

四月には、長慶様は後奈良天皇より、手ずから書き写された宸筆の古今和歌集を賜り、御礼に参内して太刀と一万疋を献じられた。