天文二十一年(西暦一五五二年)

正月から四月までの間は長慶様にとっては慶事続きであったが、こうした喜びと平穏な日々はすぐに崩された。

風薫る四月末、心地良い風の季節であったが、その風はやがて(いくさ)の匂いを運んできた。

強硬な晴元派であった波多野晴通は領地の丹波で挙兵し気勢を上げた。晴通は、長慶様の初めの奥方様すなわち千熊丸様の母君様の兄であったが、離縁して以来、その関係性は悪化する一方であった。

波多野氏討伐のため、長慶勢は五千の兵を率いて丹波国に侵攻し、儂は馬廻衆として、甚介は一軍の将として従軍した。そして晴通の居城である八上城を囲んだ。

八上城は篠山盆地のほぼ中央に位置する高城山にあり、丹波富士とも呼ばれるこの山に築かれた山城は堅固な構えを見せていた。

儂ら長慶勢が八上城を攻め(あぐ)んでいた五月末、

「摂津国で怪しい動きがある」

と、摂津国衆の有馬村秀が知らせてきた。

長慶様の娘婿である芥川山城城主の芥川孫十郎と池田城城主の池田長正が八上城の波多野氏と内談して、摂津で挙兵する手筈になっているという。

「弾正忠、どう思う」

「はい。孫十郎殿の真意はわかりかねますが、池田殿はこれまでも戦の度に右に左に靡きましたゆえ、此度もあるいは……と思われます」

「御屋形様、後ろを取られては一大事。ここは速やかに越水に退きましょう」

甚介も危険を感じていた。

儂ら長慶勢は八上城の囲みを解き、越水城に兵を退いた。また、細川聡明丸を京に住まわせていては敵に奪われる危険があるので、これも密かに越水城へ移した。