天文二十年(西暦一五五一年)

江口の戦いから一年が経っても、まだ(いくさ)は続いた。

天文十九年になると、儂ら三好勢が越水城に戻ったのを見計らって、前将軍足利義晴公は京の東山慈照寺の裏山に中尾城を築き始めた。だが上洛の夢も半ばで病を得て、五月四日に亡くなった。

跡を継いだ将軍足利義輝公は近江守護の六角氏の支援を得て、細川晴元とともに近江坂本から山を越えて中尾城に入り、北白川から鴨川河畔辺りに兵を出して荒らしまわった。

長慶様は京の細川氏綱様の身を案じて、摂津・和泉・河内から一万八千の兵を集めると、十河一存と三好長逸に預けて京に向かわせたのであるが、

「奇怪な武器に恐れをなし、兵たちは攻めるのを躊躇(ちゅうちょ)している」

との知らせが越水城に寄越された。

「孫四郎(三好長逸の通称)の兵が、その奇怪な武器にやられたそうだ。白煙とともにドンっという轟音を発し遠くで火を噴いたかと思うたら、すぐ横にいた兵が血を噴いて倒れたそうだ。弾正忠、何だと思うか」

越水城の的場で弓の稽古をしながら、長慶様は怪訝そうな顔でお尋ねになられた。

鉄の筒でできた〈種子島〉という南蛮の武器のことを儂は聞いたことがあったので、もしやと思い答えた。

「おそらく種子島という南蛮の武器と思われます。それがしも見たわけではございませぬゆえ、しかとは存じませぬが、鉄の筒に鉛の玉を一つ詰め、火薬を爆発させて玉を弾き飛ばすとか」

「その鉛の玉で人を射抜くのか」

「御意」

「さぞかし痛かろう」

「矢なれば抜けますが、鉛の玉ではそうもいきますまい」

次の矢を長慶様に手渡しながら儂は答え、長慶様は顔を顰めた。

京では、勝敗が決しないまま小規模な市街戦が続いていたので、

「冬の戦は兵たちも辛かろう」

と、長慶様は仰せになり、将軍義輝公に和談を申し入れたが、不調に終わってしまった。

十一月になると長慶様は次なる手をお考えになり、

「甚介、近江に兵を連れて行き、ひと暴れしてまいれ」

と、甚介にお命じになった。

後方の近江を取られては退路を断たれると恐れた将軍義輝公と細川晴元は中尾城に火を掛け、こちらの目論見どおりに近江の堅田へと兵を退いた。

年が明けた天文二十年正月、驚いたことに幕府政所執事の伊勢貞孝ら数名の幕臣が将軍義輝公を見捨てて京に戻り、京の三好邸にいる長慶様に許しを請うてきた。

伊勢貞孝との面会の前に、長慶様に呼ばれた儂は、居室に向かった。

「弾正忠、どう思うか」

細川晴元辺りに入れ知恵されて送り込まれた間諜ではないかと長慶様は疑っておられた。

「確かに、此度の伊勢様の帰京は疑わしいことではありますが、かと言って、細川次郎様(細川氏綱の通称)の御家来衆に京の政事(まつりごと)を任せるには、ちと力不足かと」

長慶様は頷き、

「確かにそうだな。このままでは政事が立ち行かなくなりかねぬ」

「用心するに越したことはありませぬが、伊勢様の政所への復帰を受け入れざるを得ますまい。加えて伊勢様には、さしたる兵力もありませぬゆえ、お許しになりましたところで、何の障りもありますまい」

江口の戦い後、細川氏綱様の御家来衆に京の政事をお任せしていたが、伊勢貞孝ら幕臣が加わることは、ある意味大歓迎であったので、長慶様は伊勢貞孝らがそのまま京に留まり、政事に加わることをお許しになった。

三月四日、長慶様は京の伊勢邸に招かれ、『桃の花を愛でる』という趣向の酒宴が催され歓待を受けた。貞孝らによる謀殺を恐れた儂と甚介が数名の兵を連れて同道し警護に当たったが、毒殺されることもなく、酒宴は御開きとなった。

その返礼として長慶様は三月七日、京の吉祥院に伊勢貞孝を招いて宴を催した。