俳人は自分で自分の作品の評価ができず、良し悪しの寄る辺とすべき専門家や批評家の参考意見もない。これは、私のような、傾向と対策の受験勉強を経て、とにかく前例主義で会社生活を送ってきた団塊の世代の人間にとって、たいへん頭の痛い問題だった。

俳句を始めてからまもなく、こうした俳句の特徴を痛感し、俳句の上達が簡単ではないことを悟った。どうして楽観的に俳句を始めてしまったのかと後悔し、改善策を見いだせないままに、時間だけが刻々と過ぎていくことに焦りを覚えた。

聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥というか、藁をも掴む思いで、句会の帰り道、この道三十有余年の大先輩に相談した。

「俳句が思ったより難しいことに気がついたのですが、どうしたらよいですか」

「そう、俳句は奥が深く、やればやるほど壁にぶつかるものよ。だから面白いのよ。簡単にうまくなったらつまんないでしょう」

先輩は、涼しい顔でのたまった。こう話して、さあどうだというように、私は三人の顔色をうかがった。

「そうか、俳句にはそんな性格があるのか。だけど、大先輩が言ったように、少し難しい方が面白いかもな。なんせ俺たちには時間がたっぷりある。人生、挑戦する対象がなければ退屈でたまらんと思う。なあ、そうだろう」

「そうだとも。僕もますます俳句をやる気が出てきた」

「松岡より自分の方が才能ありそう。みんなでやろうぜ」

この三人どこまでおめでたいのか、それとも根性があるのか。その時ふと、学生時代、麻雀で先行逃げ切りを目指す私が勝っていても、三人は全く楽観的で、夜明け方近くになると、後方から猛然と追い込んできて、勝負がひっくり返された苦い記憶が蘇った。何度煮え湯を飲まされたことか。

「挑戦といえば、松岡、君は比較的早く、俳句結社に入ったそうだな。結社に入るメリットって何なんだ。結社といえば俳句の上手な人の集まりだろう。経験なしの素人が加入してもだめなんじゃないのか」

バーガンディ色のとっくりセーターに黒いジーンズの立村が、矢継ぎ早に尋ねた。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『春風や俳句神様降りてきて』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。