『八汐の海』

胸に痛みが走った。不意打ちで鋭かった。一瞬間で、歳を自覚し、激しく後悔し、嫉妬し、絶望した。

待っていた午後のこと、あの時の気持ちは、痛切で青い熱望に焼かれる気持ちは、洗面台だったり、開いた本だったり、電車の座席だったり、姉の誰かが何か言った時だったりに不意に蘇って今も彼を驚かすのだったが。

通称メイン・ドラッグを雲のかげが何度も掠めて過ぎた。もう華やぎは静まって普段より真面目に見える学生が図書館の方から正門の方に歩いたりするだけだった。僕は五階の窓から見下ろしていた。

研究室に同居していた二人は速やかに春休みに入って、僕は居残りじゃなくて、待っていたんだ、本当は。根拠もなく何時間も。自分に呆れながら。ノックは空耳だと思ったが、入っていいよと口に出して帰り支度して、ドアを開けたらあの子が驚いて立っていた。

君、よく来た、やっと来た、やっぱり来てくれた、よく来てくれた……

「もう、いらっしゃらないと……」

「待っていたのに……」

僕は息せき切って

「どうするの? これから」

「……家で……平凡に……」

面食らった室町淳。

「平凡に……僕と……結婚は厭なの?」

「そんな……突然……」

「突然じゃないだろう? 最初の授業から、二年だよ、君、知ってたはずだ……君は子供だ、だけど……伝わるんだ、どうしても零れるんだ……知っているじゃないか。僕は気持ちを隠さなかった、授業では抑えたけれど。二年間、ずっと言い続けた、いつでもここに来てくれていいと。何人も来てくれた。君は無視した、わざと」