悲の断片

第一節 母の思い出

酒が止まったと言っても、それから禁断症状の日々が続いた。まるで宙に浮かんで、霧の中をさ迷うようだった。幻聴を聞いたこともあれば、幻覚を見たこともあった。

それに飲酒と放浪でボロボロに(いた)んだ体は、容易にもとには戻らなかった。私はそこで自分が一人の廃人であることに、否応(いやおう)もなく、気づかされた。落ち着きを取り戻すようになると、フラッシュバックが起こった。幼かった頃の泣き出したいような、ハラハラした時の不安が、わけもなく(よみが)えってきて、心に取り()いて離れなかった。そのほとんどは母がいなくなることの不安だったが、母のドクドクという、心臓の鼓動が聞こえてくることもあって、妙な心地になるのだった。

そんな母の思い出が(つの)ってきた折り、私はふと若かった頃の母の笑顔を思い出した。母はまだ幼かった私の耳元に、そっと内緒の話を(ささや)いた。

「おじいさんがね、お前は後生(ごしょう)よしだ。本当に、トシは素直な、いい子だと言っていたよ」

母は嬉しそうに微笑んでいた。――母は優しかった祖父の末っ子として生まれた。可愛がられて育てられたが、いかにも弱かった。旧家に(とつ)いで子を産んだものの、その子を残して里に逃げ帰った。

その不幸を(あわ)れんだ祖父は、やがて母を人里離れた片田舎の、真面目なだけが取り柄の男と再婚させた。母はそこで私を産んだ。(まず)しいばかりの生活だった。母はその貧しさに向けられた世間からの侮蔑(ぶべつ)の視線にいつも(おび)えていた。母はそんな悲哀を重ねてきたが、最後にこんないい子を(さず)かって、「あとは後生よしとなるばかりだろう」というのが、祖父の願いでもあり、予感でもあったのだ。