友の死

アル中の施設にはいった私を待っていたのは、厳しい収容生活だった。

楽しみと言えば、月に一度、仲間たちと一キロほど離れたビルの中のスパ温泉にかせてもらえることだった。そこには作り物の岩風呂があって、がな一日、その湯にかって、よく思い出にふけった。

岩風呂と言えば、私の住んでいた倉吉から少しく山奥に入った湯原ゆばら湖の近くにいいところがあった。

その峡谷きょうこくのダムの下から流れ出る大川に沿った河川敷かせんしきに、露天の岩風呂が数珠繋じゅずつなぎに続いていた。その川下かわしもには箱庭のような湯原の街並まちなみが、明治か大正の昔に帰ったようなひなびたたたずまいを、湯煙の中にのぞかせていた。

この昔ながらの温泉まちで、友人のKとよく飲んで遊んでは、露天の岩風呂に入った。Kは私の友達にしてはめずらしく成功した男で、数億の遊び金を持っていたが、すでに癌をわずらっていて、あとは死ぬばかりの人生を酒と共に飲みそうとしていた。

Kは私に巡りって、私を死出の旅路の道連れにしようとしたのにはちがいなかった。Kは夜ごとに山の中の私の家をおとずれては、両手に抱えてきた酒と食糧で自分勝手に酒宴しゅえんを開いて遊んでいった。

当時の私はと言えば、自分の店を破産させたばかりで、家族も財産も失って、なかばその日暮らしのバイト生活をしていた。Kはそんな私に飲み食いの相手をさせ、いい話し相手をつけた、というようによろこんでいた。

二人は、夜がけて酔いれる頃、気が向くと湯原の街で飲み直して、最後には決まってダムの下の露天ろてん風呂に入った。満天の星空を仰ぎながら高原の風に体をさらすのは、さわやかで心地好かった。

そして、それまでの下界の生活を見下みくだして、小さな穴倉の中でうごめく虫けらのように思った。そんな毎日を三、四年繰り返すと、Kはふっつりとなくなった。

それからまた一年ほどしてやって来て、さびしそうに「また一人殺したよ」と言って所在無しょざいなさそうな顔をして苦笑にがわらいした。

飲みに連れて回った友達が、肝硬変かんこうへんで死んだという。Kの飲み方はそれほどひどいもので、底なしと言われた私も、彼には付いていけなかった。

とはいえ、そういうKもすでに肝硬変かんこうへんになっていて、やがてドス黒い血を口からしたたらし、口に含んだ血のかたまりを音もなく吐きてた。