数年後、彼は心臓発作で亡くなった。親族は彼の仲たがいしていた海軍の軍人である息子と一人の孫娘だけ、彼はその孫だけを愛していたのだ。教会での寂しい葬式だった。

ジョウのオフィスの壁に複雑な設計図が貼られていた。その図面は製鉄所の薄鋼板を塩酸で自動連続洗浄する工程に使う大型装置で高さが一八メートルもあった。彼はこの詳細設計に取り組んでいた。

政裕の任務は彼の設計を製図工と共同で製作図を作成、顧客の承認を経て工場長に発行して現場に伝達してもらい、型の製作と材料調達、工程内品質管理などの実務を担当することになった。

そのほか彼が顧客からの見積依頼で概略設計し、それに基づき見積書を作成することもあった。そのための原価計算資料を会計部門のマネージャーから伝授された。

エンジニアリングのグループはギリシャ人のジョウの配下に製図工のフランス人グレッグ、化学技師の女性フィリピン人テリーと検査係のアイルランド人、ジョージがいた。それに日本人の政裕が加わった。

会計課長はスコットランド人、社長はユダヤ人とパートナーのイギリス人、工場長はイタリア人、フォアマンの一人はセルビア人、など多国籍極まりない。

ほかにも多様な大型製品の受注残があり順次現場で完成され顧客による最終検査を経て出荷される。

ジョウは機械工学専門で耐食性FRP機器のカナダの設計基準制定の委員でもあった。

彼は応力とひずみの計算基準参考書とその使用法など材料力学の基礎を政裕に説明してくれたが、政裕は化学工学が専門だったので材料力学の基礎を勉強する必要を感じ、急遽、日本の兄に手紙を書き材料力学の参考書を送ってもらった。

多忙だったが充実した毎日になっていた。この材料力学の応用と日本での化学分野での経験が政裕のレパートリーを広げることになりエンジニアとしてその後四十有余年にわたる数々の製品設計活動につながったと言える。

ジョウに会ったのも幸運の一語につきる。生涯の恩人である。