日本編

芦田政裕が生まれた

芦田政裕は一九三三年七月福岡の地行西町で生まれた。

生まれて二年目ぐらいの時左足全体に熱湯で大やけどをしたことを覚えている。今でもケロイドが残っている。

二歳くらいでもう覚えられるのかと人はいうがとにかくその時の情景を覚えていることは確かである。

あまりにも鮮烈な体験だったためだろうか。

おんぶされて病院に通ったことも覚えている。母はそんな政裕を見てよく泣いていた。

二人の兄は幼稚園に通ったが、政裕は通っていない。病気ばかりしていつも寝かされていた。ひ弱な体質はそのころからのことだろう。電車の絵を描くのが好きだった。

そのころの父はきびしかったらしいが夕食の食卓を囲む時政裕を膝の上にのせていた。応接間に電気蓄音機があって母とダンスの練習に使っていた。アメリカ人が来て話していることもあった。

そんな父のことを断片的に思い出す。

父母の死

父、政太郎の生い立ちで聞き知っていたことは、兵庫県、丹波の芦田村で生まれ育ち、祖父母に子がなく父が養子だったこと。

その後、実子が生まれて、父は意を決する思いがあったのか、若くして家を出て満州(中国東北部)に移住した。

満州には実業家になっていた父の実の長兄と、父の従妹と商務省から派遣されていた役人だったその夫がすでに滞在していた。

その長兄は時期が定かでないが早世した。当時満州は一九〇五年に日露戦争で勝利をおさめたあとで日本の大陸進出が始まっていた。父は奉天(今の瀋陽)で苦学して英語を学びアメリカの縫製ミシン会社、S社の工業部に職を得た。アメリカもすでに満州進出を進めたのだろう。

その後、第一次世界大戦でも日本は中国青島を占領するなど、権益を広げていた。