社会人時代の読書 医者になってようやく本を読みました。

普通に勉強していれば医師国家試験はたいして難しくありません。

留年も国家試験浪人もせず、ストレートで医者になりました。

そう考えると、要領だけはいくぶん良かったのかもしれません。

ここから先は前著『〈ものを書く〉ことについて考える』で述べましたので、本書では、生活背景を説明するに留めます。

―しかし、これが読書へといざなうきっかけになったという点では重要かもしれません。

大学院に進み、医学研究をはじめたことが、私にとっての本格的な読書の幕開けでした。

打ち明けるのも恥ずかしいくらい、とてもとても遅い開眼だったのです。

研究生活について語る内容ではないので、その部分は省きますが、実験を遂行するには、必要な実験書や文献を読まなくてはなりません。

当時、教官としての研究指導医がものすごく厳しい人だったので、いっさいの妥協を許されませんでした。

診療の傍らに行う実験と勉強の日々は夜中まで続き、社会とも隔絶した生活でした。

これまでの甘々な暮らしが一変し、プライベートを含めて、すべてを医療と医学とに捧げられる幸せな時間(?)でした。

そんななかにおいて、意外にも読書が息抜きになっていったのです。

世間の出来事を知るツールが本になっていったのです。

医療系のなかではベストセラーの『脳内革命』(春山茂雄・著)や、『死の病原体プリオン』(リチャード・ローズ・著)や、『医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か』(小松秀樹・著)を、当直室のベッドのなかで読みました

―さらに私にとって、読書のきっかけとして最大の功績を果たした〝渡辺文学〟との出会いは前著で報告しました。

本読みをしていれば、たとえそれがエッセイであったり小説であったりしても、なんとなく勉強しているフリができます。

これまで怠惰な生活を送り続けてきた人間ですから、社会人になったからといって、勝手に読書が身に付いたということではけっしてありません。

研究者が心血を注いで勉強するのは当たり前という指導医からの〝強制〟と、医者ならこれくらい読んでいて当たり前という自分への〝体裁〟とが働いたことは事実ですが、医学・医療というものの奥を知るにつれて、私は、徐々に本と向き合うことになったのです。

きっと、何の先入観もプライドもないからこそ逆に、前向きに、素直に、ただ言われるがままに打ち込めたのだと思います。

そういう意味では蛇足かもしれませんが、「中途半端な気持ちで医者になれたとしても厳しい勉強には耐えられない」と言っている意見には、真っ向から反論したいと思っています。