私の読書遍歴 思春期・青年期編

「読書によって人生を変えられたのではたまらない、読書はいつでもできる」ということを説き、本を読まない言い訳や、“読書ジレンマ”などとタイトルを打って屁理屈をこねてしまいました。「読書遍歴や書籍紹介を身勝手にされることで、逆に読む気が失せる」なんてことも提言してしまいました。

ただ、これだけ多様な娯楽の増えた世のなかですから、「本を読め」と言われても、「はい、わかりました」とならないのもわかっていただけたと思います。

ネガティブな発言で、のっけから気分を害された人もいたでしょう。ここまでとりあえず、我慢して読んでいただけたことに感謝します。

ですがここで、その舌の根も乾かぬうちに、自分の青年期までの読書遍歴を紹介するという暴挙に出ます。本を読む人というのは、幼少時代から読むように教育されたか―――「自分から読んでいた」と言う人もいるでしょうけれど―――、大人になるにつれて余程の理由を生じたか、そのどちらかに限られると思います。

私はもちろん後者です。そして、その余程の理由というのは、幸か不幸か医者になってしまったからです。無名な私の、しかも若い頃の読書遍歴に関心をもってもらえるか、はなはだ疑問ですが、どうかお付き合いいただければありがたいです。

中学時代の読書

繰り返しますが、私は小・中・高校時代、ほとんど本を読みませんでした。嫌いどころか、そもそも必要性すら感じていませんでした。親に読書を勧められたことも、読み聞かせをしてもらったことも、私の記憶のなかにはありません。

でも、そういう幼少時代だったからかもしれませんが、「さすがに、本をまったく読まないのも学生としてどうなんだ」という、少しばかりの焦燥感から、ほんの数回ですが、本と向き合おうとした時期がありました。

ご多分に漏れず、まずは夏目漱石を読もうとしたのです―あとは、『ノストラダムスの大予言』(五島勉・著)と『悪魔の飽食』(森村誠一・著)に手を出した記憶があるくらいです。

理由は、おそらくもっとも有名な作家だと思ったからでしょう。『坊つちやん』と『吾輩は猫である』に挑戦しました。はじめからわかっていたことですが、まったく読めませんでした。いまでもはっきり覚えていますが、物語の冒頭部分に耐えられず、最初の数ページでいきなり挫折してしまいました。

シーンではじまる映画と同じように、突然開かれる脈絡のなさというか、引っ掛かりの乏しさというか、その退屈感に付いていけませんでした。飽きっぽいとか、こらえ性がないとか以前の問題で、とにかく導入部分でダメでした―――「クライマックスシーンからはじまる物語だったら読めたのか?」と問われると、それもつらいのですが。

そんな青年前期でしたが、中学校最後の授業において、国語教師が『こころ』を朗読してくれたのです。全国的にもよくあることのようで、授業時間のすべてを使って“下 先生と遺書”の主要な部分を、ダイジェスト式に読み聞かせをしてくれたのです。

雷に打たれたような衝撃を受けたのを覚えています。あれほどつまらない作家だと思っていた夏目漱石でしたが、「死んだの!」という強烈な意外性でした。「略奪してまで結婚した愛すべき妻がいるのに?」。よくわからない大人としての横恋慕や、男女の駆け引きや、友人への罪悪感の前振りに続くまさかのバッドエンドに対して、とにかく物語にはクライマックスというか、驚くべき結末があるのだということを、このときはじめて知りました。読書に暴露された経験のほとんどない人間でしたから、余計にそう感じたのかもしれません。

だからと言って、これを契機に読書好きになったというわけではけっしてありません―――ここが、いわゆる読書家とは異なる歩みです。

「本というものは、序盤の退屈さを乗り越えた先にのみ、ご褒美として予想外の山場があるものなのだ」という気持ちが、少し芽生えただけでした。