役所の仕事であれ、塾での活動であれ、理論志向と実践志向の間で揺れ動いていたというのが実際のところだった。少しは腰を据えて、「本来自分は何を生きがいに、何を具体的目標として生きたら良いのか」と、長期的視野に立って考え始めたのは政経塾に入ってからで、地方公務員になってから七年目の頃だった。

その後、役所での業務と塾での活動を両立させるのは困難と判断し、役所のほうは途中で自ら願い出て非正規の嘱託職員としてもらい、勤務も半日で政経塾との両立をはかるようにしたのである。

来栖が入った当初の政経塾では、人材育成のための資金提供をしていた大口スポンサーには民主党に加え、労働組合の連合体組織も加わり、塾とは明らかにギブアンドテイクの利害関係で結ばれていた。つまり運営資金提供者は見返りとして政経塾で磨かれた品質保証付き政治家の卵を受け取るということである。

端的に言って政党や労働組合が外部組織にお金を出して発注をかけ、受け取った側の政経塾では養成された人間を対価として発送するという仕組みである。つまり昔の商家での丁稚奉公のような専門の商いの実地訓練は現場で行われていたが、次第に現今の政治ビジネスの世界では新たなタイプの教育・研修機関が次々に設立され、多様な業種にわたってプロフェッショナルが養成されていった。

政治家養成にとどまらず、ベンチャー企業養成、投資ファンド設立などさまざまな新教育産業ビジネスが生まれ隆盛を極めたのは二〇世紀から二一世紀への変わり目であるから、まさにこれらのシステムは世紀末文明の落とし児と呼べるものである。

このようなことを塾での修業の初期段階で脈絡もなく考えているうちに、来栖は政治というものも巨大な虚業という側面も持っているのではないかと思うこともあった。投資ファンド、個々の仕手筋に特化されている投資家インディーズ、人材派遣業などと同様、政治家や企業経営者の養成機構もカネ・ヒト・モノを移動させ、移し替えるだけの機能しか果たさないという意味で虚業に堕してしまう、という否定的見方である。

この観点に照らして考えると、自身の活動には常に積極的に肯定できる要素と、どうしても公益に至る成果など期待できない否定的側面が抱き合わせでつきまとってくるような気がしてきた。来栖は塾で日本の政治問題につき考えながら知識を蓄えていくプロセスの中にいて、自信を得たり、逆に自分のやっていることの意味を見失うという両極端の間で揺れていた。