塾の経営陣と教育担当者により起草された「履修規定」に則って区分された塾生の二分化とは若干異なり、塾生たちは実際に在籍して修業していく過程で独自のグループを形成するようになった。

実際にできた第一グループとして、少数派だが行政はもとより立法の分野で何らかの官職につき、地方もしくは中央の別なく政治の方向を決定づけることができるような職務に就こうとの意気込みを持つ者もいた。

もっとも、高級官僚をめざそうとしても、既に入塾してきた時点で国家公務員試験一種や、その後に定められた公務員総合職試験合格をめざすには来栖同様年をくいすぎており、やむなく方向転換せざるを得ない者もいた。

しかし自らの将来を白紙状態から考えていこうとした塾生もかなりいたし、これらの塾生の中にはいかなるグループにも属さず、一匹狼のような存在を全うすることを志向する者もいたかもしれない。

塾での実際の第二グループは時事的な問題を中心に論じるジャーナリスティックな職種に将来就きたいとの意欲を持つ者たちである。

行政手腕を発揮できる官僚や政治家になろうとする意欲を持てず、別個の路線をめざす者は、本来の政経塾での修業の眼目からすれば、確かに逸脱してしまっているところがある。

しかし政治理論や、さらにより具体的な社会公益政策といった様々な理論体系を作り上げることに関心と目標をシフトしていった塾生も現れた。

これは実務としての政治に従事せず、政策を立ち上げてもあくまで理論にのみとどまっているので、第一グループに入らないのは当然だ。

しかし第二グループに組み入れるにはその提示する理論は体系的であり、結局二つのグループの間に位置する中間グループといえようか。

勿論この方向を目指す中間派は塾生の中でも特に少数派であったが、殆ど毎年このタイプの塾生が現れるというのも事実で、結局塾が提供するセミナーや講演会の内容も少数派に合わせる形のコースも設立されることになった。

さらに政経塾の後援者はリベラルを標榜する野党から労働組合連合体まで、幅広く塾の運営資金調達の面で援助するようになった。

このような事情のもと、政経塾の教導路線にあっては、現実の政治の世界では良くいえば高邁、悪くいえば実現などまず不可能に近いビジョンをぶち上げる理論家なども教授陣に加わることもあった。