「山の手」も西に進む

映画「男はつらいよ」の中で、寅さんが啖呵売(たんかばい)で切り出す「四谷・赤坂・麹町、ちゃらちゃら流れる御茶の水」という台詞をご存じでしょう。ここで言う四谷、赤坂、麹町は、江戸時代に旗本の武家屋敷があったところで、明治維新になって薩長の政治家、軍人、財閥関係者など上流階級の人達が住んだ高級住宅地でした。従って、寅さんの前口上は話しかけるお客さんへのお世辞なのです。

この四谷・赤坂・麹町は第三代将軍家光が江戸城の西部の守りを固めるため溜池から赤坂、四谷、市ヶ谷を経て神田川に達する外濠を作らせたとき、江戸城の内側に組み込まれたところで、初代の「山の手」です。

麹町・牛込・四谷・赤坂・麻布・芝・本郷・小石川などは、武蔵野台地の東端に当たり、その東側は低地となり町人達が住む下町となります。山手(やまて)という言葉は、下町に対して高台を示す言葉です。

初代の「山の手」の呼称は、字義通り、その地形に由来します。

大正時代には、新宿から渋谷にかけての山手線の外縁部には、未だ茶園や桑園があり、武蔵野の雑木林が広がる土地でした。関東大震災により都心部から大量の人々が山手線の外側の郊外に押し出され、郊外に造成された住宅地に次々と人々が移り住みました。今は高級住宅地として知られる閑静な渋谷区の松濤、富ヶ谷、駒場がそれです。昭和の世代は、山手線の外側に広がる地域を山の手と呼び、そこを通る道路を山手通りと呼びましたが、ここは昭和になって生まれた二代目の山の手です。

第二次世界大戦後は、都心の戦災被災者の郊外への移転はすざましく、それに高度成長が加わると都内の地価は高騰して、サラリーマンの住宅地は武蔵野台地を飛び出して西に向かい、一足飛びに多摩川を越えて多摩丘陵に多摩ニュータウンの誕生となります。これは東京のスプロール現象の結果で、ドラマ「金曜日の妻たちへ」に描かれているように、団塊の世代の新興住宅地は高級感のある山の手とは言えませんが、これを第三の山の手という人もいます。山の手の西進の底流は戦後も続いていると見たからです。