第二章 忠臣蔵とは何か

忠臣蔵の研究と娯楽としての発展

史実である元禄赤穂事件についての本格的な調査研究が始まったのは、事件から約百七十年以上も過ぎた明治に入ってからで、明治二十二年(一八八九)、国内では初めて歴史学に実証主義を提唱した初代文学博士重野安繹(しげのやすつぐ)が『赤穂義士実話』を著すと、明治三十五年(一九〇二)に漢学者の信夫恕軒(しのぶじょけん)が『赤穂誠忠録』、明治四十二年には九州日報社長で後に衆議院議員となる福本日南(ふくもとにちなん)による『元禄快挙録』とその改訂版『元禄快挙真相録』が相次いで刊行される。

このように本格的な史実の研究が始まるのは、明治時代中期から後期にかけてである。

江戸城内で起きた刃傷松之廊下事件とそれに端を発した赤穂浪士による吉良邸討入りは、公儀においても重大事件の一つであり、当然のことながら調書などの公的資料は数多く現在も厳重に保管され閲覧可能である。但し、徳川政権下でのことでもあり、公的資料だからといって必ずしも真実だけが記載されているとは限らない。

それ以外にも公的資料に準ずる扱いとして、公家や各大名家に伝わる家秘録などの中にも元禄赤穂事件に関する記載が見られる。また、事件の当事者である赤穂浪士による親類縁者やごく親しい知人たちと交わした書簡も多く残存している。

とくに赤穂浪士らが討入り直前に親類縁者へ送った暇乞状などからは、彼等の人生観が垣間見え、死の覚悟を決めた人間にしか知ることが出来ない生々しい心境が綴られている。それ以外にも、事件直後の早い時期に著された一級史料とされる書物が伝わっており、討入り後の大石内蔵助をはじめ十七人の赤穂浪士を預かった細川家では、彼らの世話をした堀内伝右衛門が浪士らとの日々のやり取りを記録し、切腹までお預かりした約五十日間におよぶ日々の中から、彼らの心境や真実の姿を詳らかにした通称『堀内伝右衛門覚書』が現存している。

明治四十一年(一九〇八)、福本日南が義士会(後の財団法人中央義士会)を立ち上げると、全国に拡散していた多くの義士愛好家や信奉者に加えて元禄赤穂事件の研究者らが賛同し、本格的な研究が活発化し真実の究明が加速する。更に昭和期に入ると東京帝国大学史料編纂官であった文学博士渡辺世祐や元禄赤穂事件の研究家井筒調策、また地元赤穂においても内海定次郎や平尾弧城などの郷土史家による研究が進み、赤穂浪士の真の姿が赤裸々となっていく。