第二章 忠臣蔵とは何か

忠臣蔵の研究と娯楽としての発展

その一方で、巷では『仮名手本忠臣蔵』の内容こそが真実であると誤認されたまま長い間伝承されてきたことから、それまでに芝居などによって擦り込まれた影響力は計り知れず、真実の解明が進む一方ですでに偽書も多く出回っており、情報の類は玉石混淆のごとく氾濫している。元禄赤穂事件の研究の場においては、今日においても確認がとれていない多くの逸話を払拭するのに日々葛藤が続いている。

娯楽においても変化が見られる。今日浄瑠璃や歌舞伎は大衆娯楽としてより、日本固有の文化である古典芸能に属しており、いつしか人気の高い『仮名手本忠臣蔵』は日本の芸能史を代表する作品として研究が進められている。

また、大衆娯楽においては、明治の終わりから大正にかけて、後に浪聖と謳われ浪曲界中興の祖とされる桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が登場する。雲右衛門は武士道を鼓吹する『赤穂義士伝』を十八番として全国を飛び廻ると忽ち人気を博し、一代で莫大な財産を築いたと言われている。一般に浪曲はその殆どがフィクションとされがちであるが、雲右衛門のネタ元は福本日南の『元禄快挙録』を底にしており、彼の手掛けた作品は究めて史実に近い内容に仕上がっていたことから、一層人気に拍車がかかったと言われている。

そのきっかけとなったのが、後に初代中華民国臨時大統領となる孫文を支えたことでも知られる宮崎滔天(みやざきとうてん)を雲右衛門が弟子にしたことにはじまる。

雲右衛門は革命家でもあった弟子の宮崎滔天との関係を通じて、頭山満(とうやまみつる)率いる政治結社玄洋社から支援を受けることになる。これが縁で雲右衛門は、その当時玄洋社に籍を置いていた福本日南と出会う。雲右衛門は日南から刊行前の『元禄快挙録』の資料を渡され、赤穂浪士に纏わる浪曲を作ることを薦められる。その結果、『赤垣源蔵徳利の別れ』『南部坂雪の別れ』『大石内蔵助 吾妻下り』などの義士伝が完成。講談においても同様の題目があるが、赤穂義士伝は浪曲と講談の双方で公演されると、その後義士伝は義士本伝・義士銘々伝・義士外伝などに分かれてさらなる飛躍を遂げることになる。

昭和に入ると娯楽の中心がそれまでの芝居から映画やドラマへと移行する。すると四十七士らの生き様が戦前の日本国家が推奨するところの忠義や忠誠心を高揚させるための格好の手本となり、忠臣蔵人気はより一層の高まりを見せ、戦前戦中の軍国主義を扇動する学校教育の現場にも組み込まれていくこととなる。ところが、敗戦後は一変してGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)統治下における規制(通称チャンバラ禁止令)によって、仇討ちを取り入れた芝居や映画は全面的に禁止され、忠臣蔵もその対象となり関連する全ての興行が一時期自粛を余儀なくされる。

終戦から六年後の昭和二十六年(一九五一)九月に調印されたサンフランシスコ講和条約を経て、日本国が晴れて独立を果たすとその規制も解かれ、その後の銀幕の隆盛と共に昭和三十年代には忠臣蔵人気が再燃する。悪夢とも言える敗戦からの早期脱却を図るべく世の中が躍動する最中の昭和三十四年(一九五九)の皇太子・皇太子妃御成婚を映像で見ようと、茶の間には近代化の象徴であるテレビが急速に普及し、それに呼応してテレビ業界も忠臣蔵人気を後押しするかのように忠臣蔵を扱った作品を数多く手掛けテレビ業界をも牽引することになる。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。