事故に遭った妻は…

アルバムを順番に見ていくと、一番新しい物でも、去年の四月二十八日だった。

友だちの伊藤千絵と青森の弘前に桜を見に行った時の情景だった。写真はそれで終了しており、次のページ以降にはまだ収容するスペースが空いていたが、何も入っていなかった。

「これで、終わりじゃないのかなあ……」

達郎は、智子のアルバムの保存の仕方に関して、今まであまり関心がなかった。

「去年の夏の長崎や秋の四国なんか、あっても良さそうなのにねえ……千絵ちゃんといっしょだったはずなのにねえ……」

「撮らなかったんじゃないですか」

「……」

義母はまだ涙を拭いていた。

「今夜、この古い方のアルバム、持って行ってもいいかい」

「ええ、いいですよ」

達郎は、智子の学生時代のアルバムを三冊持ちながら、義母を家まで送った。

義母の家、つまり智子の実家は歩いて二分ほどの所にあった。

部屋に戻って来て、テーブルの上に並べられた智子のアルバムを改めてめくってみた。最後の写真は、去年の四月末、伊藤千絵との弘前旅行。母親とは違って、別段それに対して、達郎は何とも思わなかった。

それより、どうして智子は金沢に旅行したのか、いっしょに同行したのは誰なのか。義母には友だちとだけ告げており、今だに誰なのかわからない。

通夜と告別式の日に、智子といっしょに金沢に旅行していたと名乗りをあげてきた者はいなかった。別にやましくはないことなので、普通なら主人の達郎に対して、弔慰のついでに、旅行中の思い出話などを教えてくれたって良さそうなものだった。

まてよ、ということは、いっしょに同行した者は、何らかのやましさがあるので、夫である達郎に名乗り出ることができないのではないだろうか……。

達郎は、もう一度通夜と告別式の日に出席者が記入した帳面をめくった。

その中には、会社名や帰属している組織を書き添えていない者など、達郎の心当たりのない名前が十八名あった。女十一名、男七名だった。

翌日の土曜日、この十八名を義母に尋ねたところ、親戚が男二名、女三名、町内に住む義母の友人が男二名、女三名、そして、智子の付属中学時代からの友人が新たに一名判明した。これで残りは、男三名、女四名の合計七名だった。

おそらくこの七名は、智子の勤務する会社関係か、学生時代からの友人であると思われた。達郎は、まず会社の同僚でもあり、親しい友人でもある中島康枝に電話をかけて、七名の確認をした。すると、男三名全てと女の二名が会社の上司や同僚だった。

康枝は、智子が事故に遭った頃、盲腸で入院していて、葬儀に顔を出せなかったことを詫びていた。

電話を切った後、これで康枝がいっしょに金沢に行ったのではないことは確かであると思った。智子がいっしょに旅行をする可能性が高いのは、康枝か千絵のどちらかだった。達郎は残る千絵に電話した。

五回コールすると、千絵本人が出た。