大阪での単身赴任

大阪に単身で赴任してから、早いもので二年の月日が流れようとしていた。

一昨年の三月中旬、石原達郎は上司から四月一日付けで大阪へ異動するようにと内示を受けた。それには、課長代理という昇格の肩書きも付け加えられていた。達郎はまだ三十三歳だったので、その年齢での課長代理への就任は、同期の間でも群を抜いて早かった。その意味で、達郎はこの昇格がとても嬉しかった。

だが、妻の智子がいっしょに大阪に同行してくるかどうか、半信半疑だった。夫が三十三歳で、妻が三十二歳の場合、夫が転勤になったら、たいてい夫婦そろって転居するものである。たとえ、妻が定職に就いていたとしても、わが国の慣習は、まだまだこの年齢での夫の単身赴任や夫婦の別居を容認していなかった。

だから、妻がパートタイマーやアルバイトではなく、きちっとある企業に正社員として勤務していたり、また可能な限り働き続けたいという意志があっても、夫の転勤によって、その意志が貫けなくなる場合がほとんどであった。

妻の智子も会社勤めをしていたが、会社を退職したくないほど、その職業に執着はなかった。また、関西という地域が特に嫌だとか、関西に対するアレルギーがあるというわけでもなく、ましてや子供もいなかったので、夫に付き添って、大阪に行くのはとりわけて抵抗はなかった。

だから、周囲は、達郎たちが夫婦揃って大阪へ行くものと見ていた。

だが、現実はそうではなかった。石原夫婦の場合には事情があった。この年の二月、智子の母親が脳卒中で倒れたのである。幸いにも発見が早く、救急救命士の資格を持つ横浜市の救急隊員が駆け付け、すぐに適切な処置がなされたために、一命をとりとめたのである。しかし、右半身に後遺症が残り、松葉杖なしでは歩けなくなり、その後の相当な介護とリハビリテーションが必要となったのである。

智子の父親は既に他界し、たった一人の姉は北海道に嫁いでいたので、母親の住む実家の近くに住んでいる智子は、当分の間母親の面倒をみなければならなくなった。

こうして、夫の達郎は大阪への単身赴任を余儀なくされた。

ところで、達郎たち夫婦は、この時結婚六年を経過しており、その生活にはマンネリと気だるい惰性が訪れていた。だから、単身赴任をすれば、毎日妻の顔を見ないで自由気ままに生活が送れるので、達郎はそれも悪くはないと思っていた。元々地方出身者である達郎は、一人で外食をしたり、洗濯をすることには慣れていたので、それさえこなせば、後は気楽な時間が待っていたのである。

それにあわよくば、二十代の若い女と浮気でもできるのではないか、というほのかな期待があった。だから、単身赴任に対する意気込みは大であった。

ただ、智子の手前、それを考えて、ほくそ笑むわけにもいかなかったので、達郎は内示を受けた後、意図的に機嫌の悪いしかめ面を装っていた。その上、母親が病身であるとはいえ、妻の理由で亭主が単身赴任をせざるをえなくなったのは、妻に対する夫の大きな貸しであると言って、智子に対して恩に着せていた。