弔問客は突然の訃報に茫然となっていた。達郎が連絡した智子の全ての友だちは、一様に驚き、涙していた。だから、少なくとも達郎が知る限りの智子の友人の中には、今回智子と金沢に同行している者はいなかった。

幸いにも弔問者の中で、智子が金沢旅行の最中に災難に遭ったと聞いて、それに対して疑問を呈する者は誰一人としていなかった。どうやら、疑問を持っている者は、達郎と母親と姉の三人だけだった。しかし、通夜から葬儀が終了するまで、達郎はその二人とその話題には触れなかった。もっとも達郎を除いて、母と姉との間では、その件について話がなされていたかもしれないが。

結局、達郎が会社に出勤したのは、智子が死亡してから、十一日目の二月四日の木曜日だった。土、日をはさんでいたので、会社を休んだのは七日間、これはちょうど妻が亡くなった時の忌引きの日数だった。

周囲の者たちは、口々に弔慰の言葉を発していた。

総務部の美里とは、偶然帰宅途中に梅田の丸ビルの前でいっしょになり、食事のキャンセルを詫びると、事故当日の日に、達郎のいる営業第二課に書類を届けた時に、課員から達郎が早引きしたことを聞かされていたので、待ちぼうけをすることはなかった、と言っていた。

達郎は、美里のミニスカートから伸びる脚を見ながらも、何故か性欲が湧かなかった。この何日間もの間の一連の作業に疲弊しきっていたからだ。

地下鉄の梅田駅で美里と別れ、その後ろ姿を見ていると、妻の智子の姿とオーバーラップした。交通事故で頭を打ち砕かれた智子がかわいそうでならなかった。そう思うと、涙が出てきた。だが、人込みの中で涙を見せるわけにはいかなかったので、目をつぶって、涙の蒸発を待った。しばらくして、目を開けたが、蒸発しきれない涙がするりと頬をつたわった。

達郎は、この時、自分が本当に智子を愛していたことを実感した。

この週の金曜日の夜、達郎は飛行機で帰京した。

近頃では、新幹線よりも飛行機の方が、街の金券屋の実勢料金が安かったので、達郎はもっぱら飛行機を利用していた。この先、香典返しの作業やら、四十九日の法要やらで、何かと帰京する機会が多いので、交通費もばかにならないから、金券屋で飛行機の回数券を買い込んでいた。

横浜のマンションに戻ると、ちょうど智子の母親が来ていて智子のアルバムを見ながら泣いていた。

「お母さん、大丈夫ですか。哀しいのは僕も同じですけど、あんまり気を落としちゃ、お母さんのおからだにも差し障りがありますから、元気を出して下さいね」

「……ええ、わかっていますよ……」

右半身が不自由な母親は、左手で涙を拭いていた。

「ところで、達郎さん、このアルバムの続きを知りませんか。これ、去年の四月で終わっているのよ」

見ると、年寄りの几帳面さからか、母親は智子のアルバムを古い順番に並べていた。

達郎も思い出が沢山詰められているアルバムを順にめくった。

それらは達郎との旅行、女友だちとの旅行の写真が中心だった。智子とは学生時代から付き合っていたから、彼女の行動はほとんど把握していた。少なくとも、自分以外の男と旅行するようなことはなかった。智子は、達郎が初めての男だったから、他の男を知らないはずだ、と達郎は確信していた。