高麗の建国と滅亡:仏教の退廃

『朝鮮儒教の二千年』の「第4章 高麗王朝の仏教立国」の「2 王建の訓要十条」97ページには、その第一条で次のように記しています。

[我が国家の大業は、必ず諸仏の加護による。故に禅宗や教宗の寺院を創建し、住持を派遣して焚修するようにし、おのおのその業を治めるようにせよ。後世に姦臣が執政して僧たちの請謁にしたがい、寺社の争奪をする者があるかも知れない。宜しくこれを禁止せよ。]

このように、太祖は、仏教を尊崇することを第一条に掲げています。高麗時代の仏教は、護国仏教でした。この結果だと思いますが、『朝鮮の歴史・新版』の「第四章 高麗の国家と社会」の111~112ページには高麗の仏教に関して次の記述があります。

[(前略)高麗では各種の国家的仏教行事が盛大に行われた。寺院は国家鎮守の殿堂として国家の手で盛んに造営され、僧侶の数も多かった。

(中略)

高麗の仏教ないし寺院の勢力は、世俗の世界においても強大であった。国家から広大な土地と多くの奴婢が与えられた寺院は、商業・畜産・醸造・高利貸などの方法でその富をふやし、さらにその財産を守る為に僧兵を養った。]

第6代の成宗(在位982~997)はその即位と同時に、五品以上の京官たちに、封事(密封して差し出す意見書)を求めました。元老的文臣の崔承老の『時務疏』はそれに応えたものでした。『時務疏二八条』は長い前文があり、太祖の創業を回顧しながらその後に続く恵宗、定宗、光宗、景宗の治績を論評し、成宗が高麗王朝を安定化するための守成の大業を完遂するよう期待しました。『朝鮮儒教の二千年』の「第五章 成宗の崇儒政策と崔承老」の114ページに、崔承老が成宗に期待した君主像が次のように記されています。

[聖上(成宗)においては、宜しくその(前王の)善を取って行い、その不善を見て戒め、不急の務めは除き、無益の労はやめ、君は上で安らぎ、民は下で悦よろこぶようにすべきです。

始めを善くする心によって有終の美を考え、毎日その一日を慎み、休むといえども休んではならず、貴きによって君と成ろうとも尊大にならず、才徳が豊であろうとも驕おごってはなりません。ただ己をうやうやしくする情を敦あつくし、民を憂うる心を絶やさなければ、福は求めずしておのずから至り、息災は祈らなくてもおのずから消えるでありましょう。どうして聖寿が万年も続き、王業が百世も続かないといえるでしょうか。]

この成宗に対する崔承老の期待は、人として、統治者として、現在にも通用する立派なものだと思います。しかし、崔承老が国王に求めた理想的な姿は、その後の多くの国王によって見事に裏切られてしまいました。

現存する時務疏の基本内容は、いかにして王権を強化して、地方の末端まで中央集権化を貫徹するかでした。そのための障害の第一は寺院勢力であり、次は地方豪族でした。この中で力点が置かれたのは僧侶の横柄や仏教行事による国家財政の浪費への批判でした。その例を『朝鮮儒教の二千年』の116〜117ページより崔承老の『時務疏』の第一〇条と第一六条の一部から次に示します。

[臣が聞いたところでは、僧人が郡や県に往来しながら館や駅に止宿し、吏民を鞭打って、出迎えと接待をおろそかにしたことを責めています。

吏民はその肩書と任務を疑いながらも、敢えて言うことを畏れるために、その弊害は莫大であります。今より僧徒が館や駅に止宿することを禁じ、その弊害を除くべきです(第一〇条)。

世俗では善を植え付けることを名分にして、それぞれほしいままに仏宇を営造し、その数がはなはだ多いのです。また京師(都)と地方の僧徒たちが、私的な居所が欲しいから競って営造するために、州や郡の長吏たちに、民衆を徴発して使役させています。それは公役よりも急で民衆はこのためにはなはだ苦しんでいるのです。

願わくは厳しくこれに禁断を加え、(中略)百姓の労苦を除去しなければなりません。(第一六条)]