高麗の建国と滅亡:後三国の成立

高麗は後三国時代に建国された国であり、その様子が『三国史記1』の「新羅本紀第一一」の第五一代 真聖王(在位八八七〜八九七)以降に次のように記されています。

真聖しんせい王が即位した。その諱はまんで、憲康王の妹である。

(中略)

王は昔から角干かくかん魏弘ぎこうと私通していたが、〔王が即位〕すると、〔魏弘は〕つねに宮廷に出入りし、用事をしていた。

(中略)

その後、少年や美丈夫二、三名を、ひそかに〔宮廷に〕ひきいれ、淫乱〔をきわめた。〕そして、その人達に要職を授け、国政を委任した。そのため、〔王室に対しては〕おもねへつらい、〔下にたいしては〕ほしいままにふるまい、賄賂が公然と行われ、賞罰が公正でなく、政治の綱紀がゆるみくずれた。

(中略)

三年(八八九)、国内の諸州・郡では、貢賦を輸送しなかったので、〔王都の〕府庫はすっかり空になり、国家の費用は窮乏した。〔そこで、〕王が使者を〔各地に〕派遣し、督促させた。そのため、各地の盗賊が一斉に蜂起した。

(中略)

六年(八九二)、完山(全北全州市)の賊の甄萱けんけん が、〔完山〕州を根拠地にし、後百済〔の国号〕を自称した。武州(全南光州市)の東南方の郡や県は甄萱に降伏した。

(中略)

二年(八九八)秋七月、弓裔きゅうえいばい西道および漢山州管内の三十余城を奪い取り、ついに松岳郡(京畿道開城市)に王都をたてた。〈第五二代孝恭王(在位八九七〜九一二)の二年です〉

(中略)

四年(九〇〇)冬十月、国原・せい洲(慶南晋州市)・かい壌(忠北槐山郡槐山面)などの賊将の清吉せいきつ莘萱しんけんなどが城を挙げて弓裔に投降してきた。五年(九〇一)、弓裔は〔自ら〕王と称した。

(中略)

八年(九〇四)、弓裔が官職〔制度〕を新羅しんらの制度によっ〔て設置し〕た。(中略)〔弓裔は〕国号を摩震ましんとし、年号を武泰ぶたいとした。泪江道の十余州が、弓裔のもとに投降してきた。

(中略)

九年(九〇五)秋七月、弓裔が王都を鉄円に移した。

(中略)

十五年(九一一)、王が身分の賎しい女をちょう愛して、政治を顧みなかった。〔そこで、〕大臣の殷影いんえいが諫めたが、〔王はこれを〕聞き入れなかったので、殷影はそのしょうを捕らえて殺した。弓裔は国号を泰封と改め、年号を水徳万歳とした。

(中略)

二年(九一八)夏六月、弓裔の部下たちの気持ちが突然かわり、〔高麗こうらいの〕太祖(王建)を王に推戴した。弓裔は出奔したが、部下に殺された。太祖は王位に就き年号を改めた。〈第五四代景明王(在位九一二〜九二四)の十二年です〉

(中略)

四年(九二七)年春正月、太祖は自ら〔後〕百済を征伐した。王は出兵してこれを助けた。〈第五五代景哀王(在位九二四〜九二七)の四年です〉

(中略)

九月、甄萱がわが国に侵入し、高欝府に陣をはった。王は太祖に救援を求めた〔ので、太祖は配下の〕将軍に命じ、精兵一万人を動員して、救援させた。甄萱は、救援軍がまだ到着しない〔のをみて、〕冬十一月に、にわかに王都に侵入した。王はひんおよび一族のものと鮑石ほうせき亭(慶北月城郡内南面拝里)で宴游にふけり、賊兵の迫ってきたことを知らなかった。

〔賊軍の侵入を知ったとき、〕にわかなことで、どうしてよいか分からなかった。王は王妃と共に後宮に逃げ込み、王の一族や公卿・大夫・士・女子たちは四方に散り散りに走り逃れた。賊軍のために捕らえられたものは、身分の上下もなく、すべてみな驚き冷や汗をかいて地に伏せ、奴僕に成りたいと乞うたが、〔殺害を〕免れなかった。

(中略)

王は妃や妾数人とともに後宮にいたが、〔甄萱の〕軍中に引き出された。〔そこで、〕甄萱は王に自殺を強要し、王妃を強淫した。彼の部下たちに王の妃や妾をかってにさせた。そして、王の一族のものを立て、仮に国政を行わせた。これが敬順王である。]

以上が、後三国の成立とその後の様子です。

この『三国史記1』を見ていると、新羅の衰亡の様子が良く分かります。新羅が朝鮮半島を統一した685年から765年までの80年間は安定と繁栄を謳歌した統治が行われていました。しかし、765年に8歳の恵恭王が即位した時から、新羅の混乱が始まりました。768年から889年までの121年間で19回も反乱が起こっています。

そのうえ王や女王は享楽に耽り政治を顧みず、景哀王に至っては敵が王都に侵入したのにも気付かず、妃や嬪および一族の者と宴游に耽っている有様でした。

地方に配置されて、そこの統治を行うべき人たちは、勝手に将軍と称して、周囲の状況の切迫度合いに応じて、自ら去就を決めています。すなわち、彼らは小さな地方の独立国家であるかのような行動をしているのです。

この環境が後三国時代を作り上げました。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『韓国の歴史を直視する 朝鮮通史から問う反日の矛盾』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。