高麗の建国と滅亡:奴婢の存在

新羅王朝末期に、新羅の王宮へ攻め込んだ後百済の軍人に対して、王宮にいた宮廷人たちが、「奴僕になるから命を助けてほしい」と懇願しました。

これは当時の朝鮮において、戦いに負ければ奴婢になることが一般的であったことを示しています。

後三国時代に入る過程で、多くの戦いが朝鮮半島の各地で行われ、この戦いを通じて捕虜が生まれ、彼らが奴婢になり、奴婢が爆発的に増えていた可能性があります。

これを解消して国家運営を正常にしようとしたのが、956年の「奴婢按検法」です。

しかし、この「奴婢按検法」の実施で、奴婢が全部いなくなったのではなく、朝鮮統合の過程で奴婢になったものが解放されただけで、古朝鮮時代から存在した奴婢はそのまま留め置かれました。

豪族は農耕に従事せず奴僕や奴婢の仕事とし、手工業者を低い身分とし、寺や港の仕事も奴婢の仕事とすることは、習慣・慣行として、李氏朝鮮の滅亡まで続きました。支配層の人は何もしないことが支配層の証しであったようです。

高麗の建国と滅亡:科挙制度

一方、科挙制度は、優れた官僚を登用して国家の運営を万全にする目的で958年に導入され、1894年に廃止されるまで、940年間実施されました。

以下に、『朝鮮儒教の二千年』の「第四章高麗王朝の仏教立国」の「3光宗の科挙制」の104ページおよび106〜108ページの「5武が欠落した科挙制」の記述から、その要点のみを引用します。

[科挙制の実施は、在地勢力としての開国功臣およびその子孫たちを吸収して文臣として起用し、儒教倫理で結ばれた新しい君臣関係を確立するための重要な措置であった。(104ページ)

(中略)しかし開国功臣との妥協策として、五品以上の官僚の子息のうち、一人だけは科挙の試験と関係なく官職を与える蔭叙いんじょ制があった。(104ページ)