高麗の建国と滅亡:高麗の統治体制

『韓国の歴史教科書』の「Ⅱ高麗と朝鮮の成立と発展」の「1後三国を統一して体制を整える」の47ページには、「新しい政治秩序を確立する」と題して次の記述がありますので引用します。

【太祖は統一前にすでに収取制度を変更し、農民の生活を安定させようと努力した。また、開国功臣や地方豪族を登用し、有力な豪族と婚姻を通じて関係を深めた。

(中略)

太祖の後、恵宗ヘジョン定宗チョンジョンの代は王権が不安定で、王室と外戚、豪族勢力の間で王位継承争いが起こった。このような状況の中即位した光宗クァンジョンは、王権を強化するために努力した。

まず後三国の混乱期に不法に奴婢にされた者を良人として解放する奴婢按検法を実施した。これは功臣や豪族の経済的・軍事的な基盤を弱める一方、良人を増やして租税や賦役の義務を課すことで国家財政の基盤を整えるために行われた。また、科挙制度を施行して儒学を学んだ新進の人材を登用し、新旧勢力の交代を図った。

(中略)

成宗は国政を刷新するため、それまでの政治を批判し、中央高官に政策を建議させた。そこで、崔承老は儒教思想に立脚した時務二十八条を上申した。成宗はこの建議を受け入れ、儒教を統治理念として体制を整えた。全国十二牧に地方官を派遣し、郷吏制度を整備して地方の豪族勢力を牽制した。】

以上の記述で注目すべきことは三つあります。

その第一は奴婢の存在です。次は科挙制度の制定で、三番目は儒教を統治理念としたことです。

この三つの事項は、これ以降の朝鮮に大きく影響を及ぼしました。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『韓国の歴史を直視する 朝鮮通史から問う反日の矛盾』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。