食事所感

毎日の食事。多くの人は、食事時間を楽しみにしているだろう。

それとも息をするように当たり前のことと思い、その時間を消化しているのだろうか。私の場合、食事は一人で取るか、二人で向き合っていただくか、三人でいただくか、それ以上の人たちと会食するかで、食事に対する期待度が異なってくる。

一人の食事は、当然のことだが「食卓を囲んで」と言う雰囲気はなく、自動的に手と口が動いている。二人の時は、会話の内容に気がまわり、食事よりも会話が主役になるようだ。

これが三人になると、食べ物を見つめ、鑑賞する時もあり、話題を考える時もあり、食事時間を心地良く満喫できるバランスのいい人数だ。

四人以上になると、食事というよりも食事会といった緊張感や親睦の気分が湧いてくる。これは堅苦しいのではなく、食事以上のものを与え、また受けるような気がする。

その場で同じ食べ物をいただきながら、同じ時を過ごす。同じ空気を吸う。それら全てをしみじみと意識する。「同じ釜の飯を食うと親しくなれる」。同感である。

食事を共にすることは、比較的簡単な行為だ。

私たちは、自分のこと、身の回りのことは自分一人でしなければならない。他人と共にすることは、ほとんどないのだが、食事だけは人間がすべきことの中で、簡単に共に行うことができる。

毎日のことで、空気を吸うように食事を取ることは当たり前、と思えるからだ。しかし、食事は人間に日々の糧を与えてくれるばかりでなく、広い意味では文明を発展させてくれた。

植物のように水だけで生きる体であったら、または多くの動物のように栄養バランスを考えることなく、一つのものだけを食べていればよかったとしたら、今の文明はなかっただろう。

「人はパンのみで生きるものにあらず」。聖書に書かれている言葉だ。

言い換えれば「人はご飯とおかず、そして精神性が必要だ」。その食事と嗜好品のおかげで、私たちは今、豊かな文明を楽しんでいる。

時間の進み方

多くのスポーツ競技大会では、時間を競う。

どの分野でも、時間が短い記録の方が良い成績となる。遅い時間は、誰でも到達できるからである。

しかし、非常に遅い時間の記録となると、またむずかしいものである。百メートルの直線コースを五時間かけて進むには、カタツムリになったつもりで進まないと達成できない。