文章を書くこと

昔の人は手紙に親しんでいた。本に親しんでいたように、手紙に親しんでいた。電話がなかった頃はなおさらである。必要手段であった。今、手紙は必要手段ではなく、楽しみの領域であろう。送る側も受け取る側も、日常性から離れて文章を考え鑑賞する。

文章を書くことが苦手な人は多い。短いメールをよく利用する人や、話すのが得意な人でも、文章はなかなか浮かんでこない。頭の中に浮かんだ言葉を、文章にすればよいのだが、構えてしまうのである。それは文字を書かなくてはならないからだ。一気に表現するのではなく、少し間ができる。少しの間で思ったことが反芻され、練られる。そして上手く書かれた場合と、本人が気に入らない場合が出てくる。そのため筆が進まなくなるのである。

「筆が進む」とは、どういうことか。自分の考えがどんどん出てきて、筆でやっと書けるくらい、場合によっては追いつかないくらいに速く書けること。筆が進むときは、考えと書く作業に間がないくらいだ。間に合わないくらいになる。口述も考えねばならない。文章を鑑賞している暇はない。

よく、ものに憑かれたように書く作家がいるが、「物書きとは、ものに憑かれた人」とも言える。ものとは何か?それは駆り立てるものである。自分の中に存在する「駆り立てるもの」、しかも外部のものである。ものが落ちたように、書けなくなることもある。駆り立てるものは生きて、作家を操る。作品が完成すると、そのものは満足していなくなる。満足しないと、また新たなる作品に挑む。満足するまで挑み続ける。こんなものがあるのである。

それは一見、作家の内なる欲求のように見えるが、人類共通の欲求から来ていることがある。作家が代表して、書く役割を果たしているのだ。作家もこのときは、書かされるものになっている。駆り立てるものとは抽象的な言い方だが、「駆り立てるものたち」が存在しているのである。