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七三歳 Eさんの一番長い夜 繰り返し迫られる選択

Eさんは自分の考えや意見をはっきり表明する人でした。発病前は産業カウンセラーとして講演を行ったり、不登校の子どもの支援活動などの社会活動にも積極的にかかわっていました。相当の読書家で、玄関脇には書庫があり、道徳、哲学、倫理学などなど多くの本がびっしり置かれ、自身も何冊かの著書がありました。

私は著書を二冊いただき、それを仕事の合間に読んでみたのですが、物事を正面から、じっくり、落ち着いて考え、論理的に決断される人であるとお見受けしました。自身のALSに関しても同様に対応し、自分で闘えるところまでやってみようという、静かですが重い決意を感じました。

翌日からEさんのサポートが始まりました。左半身の運動能力はかなり低下していましたが、残存している右半身の力で何とか歩行も可能でした。嚥下や呼吸も問題なく、大好きな焼酎の晩酌も続けていました。関節痛がありましたが、週二回はリハビリテーション施設へ通い、静かな療養生活がしばらく続きました。

しかし、初診から約四カ月後、浴室で立てなくなり、訪問入浴をお勧めしました。また約五カ月後、腹圧がかけられなくなり緩下剤を調整しました。体のあちこちの筋力が低下していることは明らかでしたが、食物の嚥下や呼吸は大丈夫とのことでした。ただ、口が渇くとの訴えが多くなりました。

空気が乾燥している冬の時期であり、診察上も呼吸はしっかりしていたので、口腔内への水分スプレーを処方しました。しかし後から考えると、これは何らかの予兆と考えるべき症状であったかもしれません。

そして運命の時は突然訪れました。口渇の訴えが始まってから約一カ月後、急に呼吸困難となり意識障害をきたしたのです。訪問看護師から緊急コールがあり、私はEさんの自宅に駆けつけました。訪問時意識は混濁し、呼吸は非常に浅く、口唇は紫色で、低酸素血症と判断しました。直ちにアンビューバッグで用手的に人工呼吸を開始し、最悪の事態は回避できました。呼吸も自力で何とか可能な状態に戻り、会話も可能となりました。

その後、救急車に同乗して救急病院に搬送しましたが、私の頭の中では人工呼吸器を装着するか否かという大きな課題が渦巻いていました。ALSの患者さんがこの決定をする場合、それなりの時間的余裕があるのが普通です。考える時間は普通数カ月はあることが多いのですが、Eさんは短時間でこの重大な決定を下さねばなりません。

救急病院の担当医には、初診時のEさんの希望を伝えました。そのときの私の予想としては、すぐに人工呼吸器を装着しなくても、一時的に顔マスクで呼吸を助ける機械もあるし、数日から一週間程度の時間的余裕はあるのではないか……と考えていました。

その予想どおり、救急病院では人工呼吸器なしで一晩は無事に過ごせたようで、病院担当医から「『人工呼吸器の装着はせず、自宅へ帰りたい』と言われています」との申し送りを受けました。