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会津

ホテルのダイニングルームから正面に望む山門の裏では、女性のグループ二十人ほどがビニールシートを広げて食事をしている最中だった。

どうしてこんなところでとその遠足まがいのにぎやかな様子に面喰らい、たじろぎつつも脇を抜け、ほんとうにここに会津の本陣があったのだろうかといぶかりながら山上に着いて、しかし空気は一変した。

本堂や大方丈、阿弥陀堂といった巨大な木造建築にぼくは見下ろされていたのである。本堂の回廊からは黒いもやをまとう京都の市街地が一望された。

中心部には巨大なビルが建ち並び、靄に浮かぶそのシルエットは大海原を進む護送船団さながらに見えた。左奥の小指を立てたかたちの突起物は京都タワーだった。

その左側にあるはずの京都駅は、いまは靄の下に没していた。市街地は海のごとくはるか南の果てまで広がるが、高い建物のない江戸時代だったら、当時の交通の要衝となっていた淀川あたりまでをも見通せたにちがいなく、そんなことも容保がここ金戒光明寺を本陣と定めた理由のひとつだったのではと往時に思いを馳せてみた。

その松平容保ひきいる会津藩は、京都守護職として幕府のため、朝廷のためにと骨を砕いて働きながら、結局はその両者から見捨てられた。

薩長の新政府軍と旧幕府軍が鳥羽伏見で衝突する、世に言う戊辰ぼしん戦争が始まると、会津藩も旧幕府軍の主力となって戦うが、新政府軍が錦の御旗をかかげて官軍として立つや、将軍慶喜は真っ先に江戸に逃げかえり、残された旧幕府軍は大義をうしなって総崩れとなる。

各藩相次いで新政府に帰順するなか、会津藩だけが許されず、朝敵の汚名を着せられたまま最後の最後まで戦いぬき、故郷会津の鶴ヶ城で砲火を浴びる籠城戦のすえ降伏した。

藩士は下北半島の斗南となみに移され、片や蟄居ちつきよの身となった容保は、のちに許されて名誉を回復するものの、孝明天皇からの宸翰しんかんを生涯筒に入れて首に下げ、幕末維新の矛盾をすべて呑み込み世を去った。

そういう会津藩の悲劇が、いま自分が立つここ金戒光明寺から始まったことを思うと、ちょっと感慨深くもあるのだった。幕末会津の歴史は、典子と訪ねた鶴ヶ城で知った。