会津に出かけたのは、結婚して迎えた最初の夏である。かつての名城も石垣は苔むし、深い緑におおわれ、そのすべてが夏の静けさのなかに埋もれていた。

砲火を浴びてぼろぼろになった天守閣は、いまは復元された白亜のものが木立のなかにそびえ立ち、内部は資料館になっていて、藩の歴史や新政府軍との攻防の記録、白虎隊の自刃の様子や崩れかかった鶴ヶ城の古写真など、飾られる展示物を眺めながら上っていった最上階に四囲を見晴らす回廊があった。

「白虎隊が自刃した飯盛山いいもりやまってあれかなあ」典子は子どものように朱塗りの手すりにもたれ、向かいの夏山に目を細めていた。その日の典子はこげ茶色の麻のワンピースといういでたちだった。

小柄な典子はワンピースが似合い、その夏、二着のワンピースを買っていたが、シックに見えるこげ茶色のほうをとくに気に入り、迷うことなくこの旅行にも選んでいた。

涼しげなそのワンピースを着る典子を見ると、ぼくも知らぬ間に心がはずんだ。

「たぶんそうだ。あの山のどこかから、城が炎を上げているのを見てしまい、もはやこれまでと覚悟を決めてしまったんだ」

「でも、早とちりしただけで、あのとき城はまだ落ちていなかったんだよね。もったいないな、みんなまだこれからの若者たちだったのに」

高校の教師をしていた典子は、教え子と同年代の若者たちが将来を捨てて死に急いだことをしんみりとした口調で残念がった。でも、典子の言うとおりで、もし生き長らえていれば彼らにも「これから」があったのかもしれないのだ。

というのも、新政府は中枢こそ薩長の出身者でかためていたが、それ以外では広く人材を日本全国に求めており、現に会津藩からも登用され、その例として飯盛山でのただ一人の生き残りである飯沼貞吉がのちに逓信省の役人になったこと、それに、白虎隊の年少組に所属した山川健次郎がのちに東京帝国大学の総長になったことは、ついさっき、階下の展示パネルで見たばかりだった。

ほかの白虎隊の若者たちだって、もし生きてさえいれば、新しい日本のための重要な役割を……と思いを馳せていたぼくの耳に、

♪春高楼の 花の宴 巡る盃 かげさして

と、歌声が聞こえた。口ずさんでいたのは典子である。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『シンフォニー』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。