後で分かったことは、それらの石臼は近くに住む住民が数人で軽トラックを使って朝早く運び出したのだった。後に彼らは謝りに来て、それらの古い造りと形に魅せられてしまったということを漏らしていた。いずれにせよ一件落着である。

その後私たちは無事に戻ったそれらの石臼を、それらが祖父の水車小屋で最後まで仕事をしていた大事な備品の一部だったのだ、という思いに駆られて、まるでそれをねぎらうかのように、新しくつくった家の裏庭に大事に運んだのである。たまたまその石臼をじっと見ていると、もしあの工事がなかったならこれらの石臼は用水の底に埋まったまま、死のような闇の世界から救われてふたたび私たちと会うことも決してなかったであろう、という思いが込み上げてくる。

たしかにこれらの石臼は、ここに来るまで実に一〇〇年近くの間、よく耐えて天狗岩用水の底に埋まっていたことになる。たとえそれが長年使いこなした水車小屋の自然崩壊に巻き込まれた結果であって、単に古い石臼だというだけの存在でしかないかもしれないが、私たち家族にとっては、昔のままの姿を目の当たりにできたことは掛け替えのない新鮮な喜びだった。だからもちろんそれらは私ども家族にとって、長い時の経過の中で先祖から受け継がれてきた貴い命の贈り物に見えたのである。

だからもしそれらに魂があるとすれば、あのとき吹いた一陣の風は、それらみずからが起こしたのかもしれない、と私は思った。

※本記事は、2020年12月刊行の書籍『私の生きる意味』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。